風土記について
風土記は、元明天皇が和銅6年(713年)に諸国に命じて編纂された地誌で、各地の地理や物産、地名などに関わる伝承を記録している。奈良時代の貴重な史料で、朝廷に提出された原本ではなく、すべて写本で発見されている。
現存するのは、常陸国(茨城県)、播磨国、出雲国(島根県)、豊後国(大分県)、肥前国(佐賀県・長崎県)の5か国のみです。 現存する風土記の中でも『播磨国風土記』が最も早く完成したとされる。完全な形で残っているのは出雲国風土記のみある。
元明天皇は、当時存在した約60カ国に命じ、次の5項目について報告させた。
1、ふさわしい字をつけた地名。
2、土地の産物や動植物、鉱物。
3、土地の肥沃度。
4、地名の由来。
5、地域の伝説や変わった出来事。
報告書は各国の役所で少なくとも2部作成され、1部は朝廷に提出、朝廷は徴税の参考とした。もう1部は各国に保存され、中央(大和)から赴任した役人が、その国を知るための参考資料として使われたと推測されている。
播磨風土記の中の小宅について
従って、地名研究の最重要資料となっている。播磨風土記には少宅(をやけ)が登場する。その部分は、こう書かれている。揖保(いいぼ)の郡(こおり)の中にある。現在の兵庫県たつの市小宅北付近を言う。本の名は、渡来人、漢人(あやひと)が住んでいたから「漢部(あやべ)の里」といっていた。少宅(をやけ)の秦君の娘と川原若狭(かわらのわかさ)の祖父が結婚し住んだ家を少宅(をやけ)と名付けたと記されている。川原若狭の孫に智麻呂(ちまろ)がいる。智麻呂からすれば4世代前に渡来人である秦氏一族の女性が先祖となる。
その智麻呂が里長となって地方政治が整備された庚寅の年(690年)にこの地を「少宅の里」と名付けられたと説明されている。
以後、実兄である小宅信吾の遺稿を掲載する。
小宅信吾のこと
執筆者、実兄小宅信吾のプロフィール。
1938年、兵庫県揖保郡揖保川町正條に長男として生を受ける。
1962年、神戸大学文学部(英米文学専攻)卒業後、日本IBM株式会社に入社。
1993年、同社を早期退職し、日産情報ネットワーク株式会社に勤務。
1998年、同社を退職。
2020年8月、急性心筋梗塞にて逝去。
著作はAmazonでのKindleにいくつかあり、参考にしてください。
『播磨風土記から紐解く小宅のルーツ』(序章)
この遺稿にはタイトルが無い。従って弟である自分が勝手にタイトルをつけた。
兄である小宅信吾が晩年に書き上げた著作である。
歴史への深い造詣があり、広範な資料を参照している。
父、小宅睦男もその生涯にわたって小宅のルーツを探っていた。
その父の意志を長兄は引き継いで調べていたものと思われる。
題名を、『播磨風土記から紐解く小宅のルーツ』とする。
目次があり、45の節からなり、章は無い。
長文なので4回に分割して載せることにする。
今回は、その1、冒頭の節「播磨小宅氏始祖の墓」より始める。
写真や参考文献、引用資料は兄の遺稿には無く、今回ブログに掲載するに当たって自分が掲載した。
また、「読み」を上付きルビで括弧内に記載した。
『播磨風土記から紐解く小宅のルーツ』(その1)
播磨小宅氏始祖の墓



墓石がある。いつ作られたものかは不明であるが、形の良い自然石で墓所の一角に置かれて何年が経ったのであろう。墓石は長い歳月を刻んで、赤茶色の錆びが出ている。かなり鉄分の含有量が多いのであろう。この地域には珍しい石である。表面には『播磨小宅氏始祖之霊』の文字が彫り込まれ、背面には『小宅秦公、小宅若狭、小宅智麻呂、小宅庄司季政、小宅右衛門太郎(天文六年六月八日卒)、小宅右衛門次郎高広(永禄年間没)』の名前が上下二段に分けて並記されている。
播磨国の小宅氏は 小宅秦公(おやけはたのきみ)を始祖とし、この6名であるとする。
小宅右衛門太郎(おやけうえもんたろう) は天文六年、西暦では1533年に亡くなり、小宅 右衛門次郎高広(おやけうえおもんじろうたかひろ)は永禄年間、即ち1588年頃亡くなっている。
従って、この墓石は1588年以後に造られたことになる。最も古ければ500年前、最も新しいものであれば明治の頃、100年ほども前と言うことになろうか。
小宅秦公(おやけはたのきみ) 、小宅若狭(おやけわかさ) 、小宅智麻呂 (おやけちまろ)の名は「播磨国風土記」に登場する。小宅秦公は六世紀に播磨地方の酋長(豪族)だったらしい。小宅智麻呂は七世紀、この地方の里長であった。小宅庄司季政(おやけしょうじかげまさ)は鎌倉時代の人物で、この地で手広く小宅宿を営んでいたようで、万歳長者とも称されていた。当地きっての大金持ちだった(播磨地誌「峯相記」)。小宅右衛門次郎高広は安土桃山時代の人物で1573年頃、竜野赤松氏麾下で小松砦(片山城)の城主であった。
墓石は兵庫県たつの市揖保川町正条のある旧家の墓所にある。
播磨国風土記の記述
元明天皇(げんめいてんのう)が53歳の時、和銅六年(713年)5月2日に次の官命を下した。「畿内七道諸国の 郡(こほり)・郷(さと)の名は良い漢字で表記せよ。郡内に産出する銀・銅・彩色(染料と絵具の材料)・植物・鳥・獣・魚・虫等の物は、その一つ一つの種類を記録し、また土地が肥沃か否か、山・川・原・野の名称の由来、また古老が伝承している古い話や変わった事柄などを、史籍(書物)に載せて報告せよ」。
元明天皇がこの官命を下した理由は、動き始めた律令国家の権力基盤を益々強固にする為、国の全貌を把握することだった。と同時に、徴税の基礎資料を整備するのが目的だったようだ。因みに、元明天皇(女性)は 持統天皇(じとうてんのう)とは異母姉妹である。父は天智天皇(てんじてんのう)(青年期の名は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ))、蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺して大化の改新を成し遂げた人物である。
この官命に基づいて地方の役人が報告書を作成し、今日まで残っている報告書が風土記と呼ばれている。それは「播磨国風土記」、「常陸国風土記」、「出雲国風土記」、「肥前国風土記」、「豊後国風土記」である。この中でも官命後二、三年以内に編纂されたとされる 播磨国風土記(はりまのくにふどき)が最古とされる。播磨国風土記 は古事記や日本書紀よりも古く「記・紀」の影響を受けていない。また「記・紀」の様に国が作った正史ではないので、当時の人々の観察や認識が率直に描かれているので、評価が高く国宝に指定されている。
播磨国風土記 編纂時の播磨国守は 巨勢邑治(こせのおおじ) だが、実際に編著の実務を担当したのは楽浪河内 (ささなみのかわち)(播磨国の大目・従八位上遣唐使として唐で学んだこともある。)とされる。
播磨国風土記の中の少宅里(をやけのさと)
播磨国風土記(はりまのくにふどき)の中で少宅里(をやけのさと)は次の様に記されている。
『少宅里(をやけのさと)。本の名は漢部里(あやべのさと)なり。土(つち)は下(しも)の中(なか)なり。漢部(あやべ)と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、漢人(あやひと)此(こ)の村に居(を)りき。故(かれ)、以(もち)て名(な)とす。後(のち)に改(あらた)めて少宅(をやけ) と曰(い) ふ所以(ゆえ)は、川原若狭(かわらのわかさ)の祖父(おほじ)少宅秦公(をやけはたのきみ)の女(むすめ) に 娶(あ)ひて、即(すなわ)ち、其(そ)の家(いえ)を少宅(をやけ)と 号(なづ)けき。後に、若狭(わかさ)の孫(うまご)智麻呂(ちまろ) 、任(ま)けらえて 里長(さとをさ)となりき。此(これ)に由(よ)りて庚寅年(かのえとらのとし) に、少宅里(をやけのさと)とす。』
この文章を意訳すると以下のようになるであろう。
『少宅里(をやけのさと)元の名前は 漢部里(あやべのさと)である。土地の肥沃度は八等級(九等級の中の八番目)である。漢部(あやべ)と名付けられた理由は、漢人(あやひと)がこの村に住んでいたから、この様な名前になったのである。後に改めて少宅(をやけ)と言う理由は川原若狭(かわらのわかさ)の祖父(おほじ)が 少宅秦公(をやけはたのきみ)の女(むすめ)と結婚した時に 少宅(をやけ)を名乗ったからである。当時、貴族社会では結婚した男子は妻の家で生活する招婿婚(しょうせいこん)が普通で、邸宅などの財産も娘に譲られることが多かった。しかし、招婿婚と言えども姓は父方を名乗るのが普通だが、川原若狭祖父(かはらのわかさのおほじ)が少宅 を名乗ったのは少宅秦公(をやけはたのきみ)の家柄・勢力が優っていたからであると考えられている。「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく) 」によれば 少宅秦公は「孝徳王の末」とある。残っている系図では孝徳王は秦始皇帝の子孫で数えて十五世孫となる。少宅秦公 はこの孝徳王の子孫である。
秦始皇帝と少宅秦公(をやけはたのきみ)の繋がり
秦始皇帝と 少宅秦公(をやけはたのきみ)はどの様に繋がるのか見てみよう。
秦始皇帝は始皇37年(前210年)、沙丘を巡幸中に危篤に陥った。そこで始皇帝は側近の 趙高(ちょうこう) を呼び長子扶蘇(ふそ)宛ての書を作らせた。内容は「軍は蒙恬(もうてん)に任せ 咸陽(かんよう)に帰り、わが遺骸を迎えて葬儀を行え」というものだった。長子・扶蘇は長く辺境の地にあって国境警備の任にあった。書簡は封印されたが、未だ使者の手に渡らぬ内に始皇帝は崩御した。
そこで、末子胡亥(こがい) と親しかった 趙高(ちょうこう)はこのままでは長子扶蘇が二世皇帝になってしまうことを怖れ、胡亥と宰相の李斯(りし)を巻き込み陰謀を企んだ。即ち、扶蘇宛の始皇帝の詔書を偽造した。内容は次の如くである。
「朕は天下を巡幸して名山諸神を祀り、寿の長からんことを祈祷している。しかるに汝扶蘇(ふそ)は蒙恬(もうてん)と共に、数十万の軍を率いて辺境にあること十余年、一歩も前進しえずして数多の士卒を失い、寸毫の功すら挙げていない。それにも関わらず、しばしば上書して不遜にも我が為すところを誹謗した。しかも都に帰還して太子となることを許されぬとて日夜我を怨望しているという。汝扶蘇は人の子として不孝である。ここに下賜する剣をもって自決せよ。また、将軍蒙恬は扶蘇と共にありながらこれを正すことがなかった。その陰謀や推して知るべく人臣として不忠である。よって自殺を命ずる。軍の指揮は副将王離(おうり) に委(ゆだ)ねよ」
これは 扶蘇の弱みを的確に突いた名文と言える。扶蘇は一読するや、わっと声を挙げ、隣の部屋に駆け込むと自殺を図った。蒙恬はその手を押さえて、
「陛下は今、都を離れたままで、まだ太子をたててはおられません。また、陛下は私に三十万の兵を授けて辺境を守らせ、その監督をあなたにお命じになったのです。あなたはこれほど重大な任務を与えられている。一使者が来たからと言ってすぐ自殺していいものでしょうか。使者が偽者でないとどうして言えましょう。どうか、陛下にもう一度お赦しを請うてみてください。自殺はそれからでもけっして遅くはありません」
蒙恬は将軍らしく冷静に対処するが、扶蘇は素直で優しい性格であった。
「父が子に死を命じたのだ。今更、助命を請うことなどできるものではない」と言い自殺した。この時の事情は司馬遷の「史記」に詳しい。
結果として、始皇帝の葬儀を済ませた末子胡亥が二世皇帝として王国を継いだ。しかし、胡亥はその器ではなく、たちまちの内に秦始皇帝の王国は崩壊の道をまっしぐらに突き進んだ。
さて、自殺した 扶蘇には長子は子嬰(しえい)、次男には胡苑(こえん) がいた。二世皇帝 胡亥は三年を待たずして国家混乱の中で自殺するが、その後を継いだのが 子嬰だ。しかし、最早秦帝国の凋落は目を覆うばかり、在位46日で攻め上って来た劉邦の軍門に降った。劉邦は子嬰の命を奪うことはしなかったが、後から都に入った項羽は王宮の財物を欲するままに略奪し、更に子嬰始め皇族全員を殺した。かくして秦帝国は完全に崩壊した。
ところが次男・胡苑 は秦の地を嫌って朝鮮半島南東部に逃亡したと言う伝承が残っているのだ。即ち、「秦の始皇の孫、胡苑(こえん)が漢の恵帝元年丁未(紀元前194年)苦役を避けて来て韓地に 逗(とど)まれるのを、韓王がその東界百里の地を割き与えた」と言うものである。
胡苑一族は後世、朝鮮半島で辰韓(辰(じん)国)を創建した。少宅秦公が祖とする孝徳王は、系図によると 胡苑 に続き、始皇帝から数えると第十五代の王である。秦始皇帝の系図として次の様な資料がある。
秦始皇帝(名前は政)―太子・扶蘇(ふそ)―次男・胡苑(こえん)(前194年に韓地に入る)―陽夫―孝武王(漢武帝元封2年、前194年辰韓12部を統治す)―諸歯己智―郡提巨旦―弓歯王―洪己叱王―法成王―笠連王―鎮成王―孝徳王(少宅秦公の祖)―尊義王―武安王―功満王―融通王(弓月王、応神天皇朝に帰化、仁徳天皇朝に絹を献ず)―普洞王(浦安公)―酒公(雄略朝に秦の民、92部18670人を賜った。絹を多く献上したので 兎都万佐公 (うずまさこう)の姓(かばね)を賜った。)―意義(秦公)―宇志―丹照(秦公)―河勝(秦公、推古朝に奉仕)・・・。
意義(秦公)の子に志勝がおり、その子が大津父(秦大蔵公、欽明朝に奉仕)である。大津父は時代的に河勝より以前で欽明朝に存在した。
これを見ると秦始皇帝の末裔は秦氏として倭国で生きた。即ち、秦始皇帝・扶蘇の次男胡苑が日本の秦氏の祖先である。ただ一般に秦氏と言う場合、それは王族だけではなく、秦人、即ち秦王に仕えていた武士や一般人、さらに家族・関係者など多くの人々を指す。日本の秦氏は大人数である。これは辰韓の国中の人々が集団で、かつ、何代にも渡って渡来したことになるものだ。
この系図では、少宅秦公(をやけはたのきみ) は弓月王よりも以前の人である。即ち、少宅秦公の渡来は仲哀朝、または神功皇后朝であり、日本秦氏渡来の草分け的存在と位置付けできる。
少宅秦公は 奈勿尼師今(なもつにしきん) が第17代新羅王になった前後の時期、364年前後に渡来したのであろう。この時期は朝鮮半島が政治的に最も動揺・変化した時期であり、従来の辰韓各国の力が弱体化し、新しく「新羅」として統一国家を目指す動きが活発化した時代である。
奈勿尼師今はその動きの中心人物だった。少宅秦公はこの政治的変化を嫌って渡来したのではないか。「小宅神社の由緒」が伝える 少宅秦公と神功皇后の接触とも時期的に合致する。
当時の辰韓の政治的変化をもう少し詳しく見ると以下の様になる。
従来、辰韓王(新羅王)は朴・昔・金の三姓の内から年長者が王位を継ぐことになっていたのだが、奈勿尼師今 からは王位の継承を金氏が独占してしまった。また、これまで漢(東晋)に対しては辰韓十二国の王がそれぞれ独自に朝貢していたが、奈勿尼師今からは新羅王(奈勿尼師今)のみが辰韓十二国の代表者として朝貢するようになった。更に高句麗寄りの姿勢が鮮明になり、高句麗からの内政干渉の度合いも強くなったのもこの時期である。
辰韓十二国の王家一族であった少宅秦公はこの様な辰韓の政治的変化を嫌ったと見るべきではなかろうか。少宅秦公は筑紫に着いた後、瀬戸内海を東に航行し、気候温暖で豊饒の平野・揖保川の下流域に居を決めたのである。
少宅智麻呂(をやけちまろ)と楽浪河内(ささなみのかわち)
さて、漢部里(あやべのさと)と呼ばれていたこの里は後の世になって 若狭(わかさ)の 孫(うまご)少宅智麻呂(をやけちまろ)が里長だった 庚寅年(かのえのとらのとし) (694年)に 少宅里(をやけのさと)と改名した。
播磨国風土記(はりまのくにふどき)における少宅里の描写は具体的で、他条に比べると一歩も二歩も踏み込んで具体的な内容になっている。少宅秦公、少宅秦公の女(むすめ) 、川原若狭の祖父、川原若狭の孫の智麻呂など少宅氏の数世代を記述している。これは当時、漢部里・少宅秦公は相当な存在感のある出来事であり、当地で知れ渡っており伝承の厚みが増したということではなかろうか。
播磨国風土記の編著の実務を行ったのは、遣唐使として唐に派遣されたこともある俊才楽浪河内(ささなみのこうち)の可能性が高い。播磨国風土記編纂の官命が下ったのは和銅六年(713年)、彼はこの時点で播磨国の大目(だいさかん)従八位上の役職にあった。「大目(だいさかん)」とは、国司の四等官で国内取締りや文案の審査がその役目であるから、播磨 国風土記は彼の責任の下に編纂されたと考えて良いだろう。因みに、当時の国司の職員構成は以下のごとくである。守(かみ)(一名)―介(すけ) ― 掾 (じょう)(一名)― 目(さかん) (一名)―史生(しじょう)(二〜五名)―国掌・国雑掌である。史生とは公文書の書写や修理などを行う下級書記官のことである。
その頃、楽浪河内(ささなみのかわち) が勤務する国庁(国衙(こくが))は飾磨郡(現在の姫路城辺り)にあり、少宅智麻呂(をやけちまろ)の住む龍野 (小宅里)とは地理的にキロ米ほどの距離である。二人は又、互いを良く知っていた間柄だったのではなかろうか。
楽浪河内の祖は高陵高穆とされているが、高陵氏高穆は秦王族、高陵君参の後裔であり、漢土の出身であった。高陵高穆は、建安廿二年(218年、後漢)に漢土から百済に入った。子孫は後に二派に分れ一派は東漢直掬と共に投化して大石村主の祖となり、もう一派は楽浪(ささなみの)氏として天智朝に投化し高丘宿祢の祖となったとされる。
少宅秦公(をやけはたのきみ)は原始的姓(かばね)
さて、少宅秦公の姓(かばね) が「君(きみ)」ではなく「公(きみ)」である。
太田亨氏(姓氏家系大辞典の著者)は、「姓(かばね)」は時代によって大きく二つに区分できると説明する。
先ず、第一区分として、仲哀天皇の頃までの「姓(かばね)」である。この「姓 (かばね)」は地方の地名または職業名に 公(きみ)・彦(ひこ)・梟帥(たける) などを付したもので、その地、又は、職業団体の長であることを表した。これは「原始的姓(かばね)」とも称すべきであり、朝廷から与えられたものでなく、或いは朝廷の権威が未だ固まっていない頃で民間から自然発生的に起こったものである。
例えば、「磯城彦(しきひこ)」は 磯城(しき)地方の酋長であり、「登美毘古(とみひこ)」は登美地方の酋長であった。古事記に登場する 倭建命(やまとたけるのみこと)(日本武尊(やまとたけるのみこと) )は大和地方の酋長であり、出雲建命(いずもたけるのみこと) は出雲地方の酋長である。因みに倭建命の父は仲哀天皇である。
第二区分とは、その後、大和朝廷が勢力を増した過程において、「朝廷が与えた姓(かばね) 」である。その姓(かばね)は連( むらじ)・臣(おみ) ・造(つくり) ・公(きみ) ・直(あたえ) ・首(おびと) などだった。その後、天武朝の684年に「八色(やくさ) の 姓(かばね) 」が完成するが、それは 真人(まひと)・ 朝臣(あそん)・ 宿禰(すくね)・ 忌寸(いみき)・道 師(みちのし)・ 臣(おみ)・ 連(むらじ) ・稲置(いなぎ) だった。
少宅秦公の場合は渡来の時期(仲哀朝、四世紀後半)から見て「原始的姓(かばね)」としての「公(きみ)」に該当すると考えられる。従って、少宅秦公は大陸から渡来した西播磨における酋長だったのである。
酋長(豪族、貴族)生活とは通常、親戚・縁者などが近くに住んで、彼ら複数戸主を少宅秦公は従えていたと考えられる。村の人々は地理的に一ヶ所に住んでいるのが普通だが、少し離れた所にも十戸から二十戸程度の住居が存在していた場合もあったようだ。
少宅秦公一族は現在のたつの市龍野町の中央部、即ち富永・小宅北辺りに住居を構えていた。
ではもう一方の雄、川原若狭祖父(かはらのわかさおほじ)は何処に住んでいたのか。この記録はない。川原若狭も大陸から渡来して 漢部里の一角、または近辺に住んでいたのであろう。現在のたつの市川原町辺りは「川原」の付く街名が多く、川原若狭との縁があるのかも知れない。また、この場所は西宮山古墳跡に距離が近い。
川原若狭祖父(かはらのわかさおほじ) は 少宅秦公の女(むすめ)と結婚した時に、漢部里の中心部に移住して少宅若狭を名乗ったのであろう。少宅秦公が自らの出自を秦始皇帝とする経緯(いきさつ)に関しての資料は残っていない。少宅秦公の時代にはそれは既に広く知れ渡っていて自明の理だったのか、この辺りの事情は不明である。ただ、少宅秦公の時代から400年も後に編纂された「新撰姓氏録 (しんせんしょうじろく)」と言う書において 少宅秦公 は「秦始皇帝の孫、孝徳王の末」と記載している。「新撰姓氏録 」の記載は自己申告に基づいたもので信用できないと言う説もあるが、四百年前の少宅秦公が関与できるものものではない。
新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)について
新撰姓氏録は平安時代初期、815年に編纂された古代氏族名鑑である。古代の支配層を皇別(祖先を皇族をとする氏族)、神別(祖先を神代の神々とする氏族)、諸蕃(中国・朝鮮などから渡来した氏族)の三つに分類して祖先を明らかにしている。記載されている氏姓は全部で1112氏族で、古代から平安期までの日本社会のリーダー達を明らかにする。
「諸蕃」は全体の三分の一以上を占め、漢系163氏、百済系104氏、高句麗系41氏、新羅系9氏から構成されている。
秦公(はたのきみ)の記載は河内国諸蕃の部にある。秦公(はたのきみ)の本貫(出身地)は河内国、出自国は漢、氏族名として秦(はた)、姓(かばね)は公(きみ)。始祖は「秦始皇帝孫孝徳王之後也(しんしこうていのまごかうとくおうのあとなり)」とある。
新撰姓氏録の記載は真実なのかと疑う説もある。その理由としてこの書が自己申告に基づいて編纂されていることを挙げる。新撰姓氏録が編纂された天平時代(710―794年)は、特に中国(唐)からの文化・文明・技術の移入が盛んで中国出身は一つのステータスになっていた。それで、有力豪族は八世紀(新撰 姓氏録 )になって突然、秦始皇帝出自を言い出したとするものである。秦氏が漢氏と張り合う為に創作した作り話であると言う説もある。
真偽の程は如何であろう。ただ、播磨国風土記 が述べているように、川原若狭祖父が少宅秦公(をやけはたのきみ)の女(むすめ)を娶(めと)って、少宅(をやけ)を名乗るなどの動きを見れば、川原若狭祖父は少宅秦公の偉大さを認めていたということであり、この記述を嘘とする理由は見当たらない。
因みに、河内国の諸藩の氏族は全部で55氏族だが、漢を出自とするのは36氏族、百済15氏族、高麗3氏族、新羅1氏族となっている。河内国の皇別は36氏族、神別は63氏族である。
少宅秦公以後―時代の変遷
川原若狭祖父は少宅秦公の女と結婚し、その子が少宅若狭(をやけわかさ)(川原若狭(かはらのわかさ))、少宅若狭の孫が少宅智麻呂(をやけちまろ)と言う順番になる。「孫(うまご)」と言う表現は「子の子」、または「一般的に血の繋がった者、後裔(こうえい)」という意味もある。少宅秦公の渡来を四世紀後半とした場合、少宅智麻呂は凡そ200年後の人である。大化改新が646年に発布され里制が敷かれ、少宅智麻呂は里長に任命された。
国司・郡司は中央から派遣され、里長は住民の中から選任された。そして、持統天皇四年(690、 庚寅年)に 少宅智麻呂は漢部里を少宅里に改名したのである。
七世紀後半から大和朝廷の力は大化改新などの政治改革(律令制国家)を通じて圧倒的に強くなり、地方豪族の政治的・社会的地位・権力が大きく変った。大化の改新(646年)後、皇室や豪族が私有していた土地・人民の私有は禁じられた(公地公民制)。班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)により、六歳以上の良民の男子には 二段(にたん)の口分田(くぶんでん)が、女子にはその三分の二、賤民のうち官戸・公奴婢には良民と同額、家人・私奴婢には良民の三分の一が支給された。収穫の三パーセントが田租として徴税されるようになった。
この変化は地方豪族にとっては激動の時代となった。当地の君主(酋長)であった少宅秦公も川原若狭祖父、 少宅若狭、少宅智麻呂(大化改新の頃の誕生か)と数世代が交代がするに連れて、大きな時代の流れの中で君主から大和朝廷の役人(里長)に成り下ったとも言える。少宅智麻呂は里長として徴税の任にあたることになったのである。
大和朝廷は国司・郡司の任には朝廷豪族を当て地方に派遣するのが慣例だったが、地方豪族の力が強大な場合は、地方豪族をそのまま国司・郡司に任命して懐柔策を取ることを行った。大和朝廷もなりふり構わず権力の拡大を画策したのであって、少宅若狭などが郡司に任命されていたのかも知れないが記録はない。
少宅里(をやけのさと)の比定地
少宅里(をやけのさと)の比定地については大日本地名辞書(吉田東伍著、明治33年12月初版)は「揖保川と林田川の中間なる平郊にして、大字日飼(ひかい) より揖保河水を堰入(せきい)れ数条の溝渠(こうきょ)となす」としている。ただし現在も、たつの市龍野町には川原町、上川原、下川原と川原と名が付く町並みが鶏籠山(けいろうざん)の麓に密集している。これら地名は 川原若狭祖父(かはらのわかさおほじ)がこの地域に住んでいたことと関連があるのだろうか。その場合、少宅秦公と川原若狭祖父は揖保川を間に挟んだ地理的関係だったことになる。そして、少宅秦公と川原若狭一族が婚姻関係を結ぶことによって、少宅里(をやけのさと)(小宅郷)は揖保川を西に越えて広がりを示したと言えるのではなかろうか。
辰韓について
次に、朝鮮半島東南端・辰韓についてもう少し詳細に見てみよう。
『後漢書』東夷伝には「辰韓、耆老(きろう)(耆(き)は60歳の老人、老(ろう)は70歳の老人)自ら秦の亡人と言い、苦役を避け、韓国に 適(い)き、馬韓が東界の地を割(さ)きて之を与う。・・秦語によく似ているので、故に之を名づけて秦韓となす」とある。秦語とは秦の言葉である。即ち、秦始皇帝の統一前に秦で話されていた言葉だが、統一後は中国全土の言葉になった。ただ、実際には中国各地では種々な中国語・漢語が話されていたようだ。
以上は中国の歴史書の記述だが、次に朝鮮半島の歴史書を見てみよう。
「三国史記(さんごくしき) 新羅本紀(しんらほんき) 」は朝鮮の歴史書で全五十巻に及ぶ。高麗の金富軾(きんふしょく) が1145年に編した。新羅・百済・高句麗の歴史を紀伝体で記し、朝鮮の歴史を体系的に述べた最初の書である。この中に同様の記述がある。
新羅本紀 巻第一の始祖(しそ)赫居世(かくきょせい)(在位は前57〜後4)の条文の中に「中国人で秦の時代の争乱に苦しみ東方に移住する者が多かった。彼らの多くは馬韓の東にいて辰韓と雑居していた。この時期になって彼らは次第に盛んになった。」とある。これは紀元前20年の様子を記述したもので、辰韓において次第に秦人の勢力が強くなったと述べている。
三国史記 新羅本紀第一 第一代始祖 赫居世居西干(かくきょせいきょせいかん)(紀元前69年〜後4年)の条は辰韓の起源について次の様に述べている。
「これ以前(紀元前57年以前)に、朝鮮(唐代以前では後に楽浪郡が置かれた地域のことを朝鮮と言っていた。朝鮮が自国の称号を朝鮮としたのは13世紀になってからである)からの移住民が(現慶州市の)山間に分かれて六村を作った。その第一は 閥川楊山(あつせんようざん)村といい、第二は 突山高虚(とつざんこうきょ)村、第三は 觜山珍支(しざんちんき)村、第四は 茂山大樹(もざんだいじゅ)村、第五は 金山加利(きんざんかり)村、第六は 明活山高耶(めいかつざんこうや)村だった。これらが辰韓の六部(六村)である。六部は六国、或いは六部族と言われた。後に、この辰韓六国は十二カ国に分化した。いずれにしても辰韓の人々は中国からの移住民だった。
或る日、高虚村(こうきょそん)の村長 蘇伐(そばつ)公が楊山(ようさん)(南山)の麓を見るとラ井(らせい)(慶州市塔里)の傍の林の中で、馬が跪(ひざまず)くようにして 嘶(いなな)いていた。そこへ行ってみると、突然、馬の姿が見えなくなり、ただ大きな卵だけがあった。その卵を割ると幼児が出てきた。そこでこの幼児を育てた。その子が十余歳になると、若いのに優秀で老成していた。六部(六村)の人たちは彼の出生が神秘的だったので、彼を崇(あが)め 尊(とうと)び、この年になって君主に擁立した。辰韓では瓢(ひさご)のことを朴(ぼく)といった。始祖が地上に初めて現れた時の大卵が瓢(ひさご)ようだったので、始祖はその姓を朴(ぼく)とした。居西干(きょせいかん)とは辰韓では王者のことを言う。」
この様に辰韓は中国国境付近からの移住民で構成されていたと記述されている。即ち、彼らは中国人であり、その中に秦時代の争乱を避けてこの地域にやって来た秦始皇帝縁(ゆかり)の者たちがいたことはあり得ることである。その後の時代になっても、更に漢土から多く移住民が合流し、辰韓を漢土出身者の国として発展させたのである。
実際、漢武帝の元封二年(紀元前109年)には秦始皇帝三世の孫、孝武王が辰韓の王となって馬韓に属しながら、辰韓12ケ国を統治したという伝承がある。新撰姓氏録は孝武王を祖とする弓月王が金銀玉帛等の貢物を持参して誉田天皇十四年に27県の百姓を率いて帰化したと記述する。
以上は朝鮮半島の正史、三国史記(さんごくしき)・新羅本紀(しんらほんき)の記述による考察だが、中国の正史にも同様の記述がある。
先ず、「三国志魏書」巻三十、鳥丸鮮卑東夷伝(290年頃、編著は陳寿)の辰韓条に、三国史記 ・新羅本紀と同様の記述がある。
「辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、彼らは秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したと自称している。城柵あり。言語は馬韓と同じではない。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)、皆のことを徒と呼び合い、秦語に相似しているが、燕や斉の名称ではない。楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。今はこの国の名称を秦韓とする。始めには6国あり、12国に細分化した」。
更に、「辰韓者,古之辰國也」(辰韓は古の辰國也)とあり、続いて「辰王治月支國」、辰王は月支國にて統治するとしている。
月支国は月氏の一支族が建国した小国である。月氏(げっし)は紀元前三世紀から一世紀頃にかけて北アジア・中央アジアの高原に存在した騎馬民族国家である。匈奴と戦い、敗れた後は天山山脈を越え西に逃れてバクトリアに大月氏国を建てた。漢土に残った民は黄河の西に移住して小月氏と呼ばれた。ここで言う月支国は小月氏の一氏族が辰韓の地に樹立した国と推察できる。秦氏に騎馬民族の血が流れている可能性がある。また、秦始皇帝自身が漢土ではなく、騎馬民族出身という説もある。
この記述の後に、日本では有名な「魏志倭人伝」があり、それは「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑」の文で始まり、卑弥呼の記述へと続くものである。
更に別の中国の歴史書、「後漢書」(440年頃、范曄(はんよう)編著)にも同様の記述が見える。それは「巻85、東夷烈伝75」の辰韓条である。范曄(はんよう)「三国志魏書」を参照しているのであろうが内容的に次の様に重なっている。
「辰韓、ここの古老は自分たちは秦からの逃亡者で、苦役を避けて韓国に来たが、馬韓は東界の地を我々の為に割譲したのだと言っている。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、言葉が秦語に良く似ているので秦韓とも呼んでいる。
城柵、家屋、宮室がある。諸々の小邑落には各自に渠帥(首領)がおり、大長は臣智、次に儉側、次に樊秖、次に殺奚、次に邑借がいる。土地は肥沃、五穀の栽培に適している。養蚕を知っており、縑布を作る。牛馬の車に乗る。嫁は婚礼をして娶る。道で行き合えば道を譲る。
国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などがこれを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を通貨とする。習俗は歌舞、飲酒、鼓を打ち 瑟(しつ)(琴の一種)を弾くことを好む。幼児はその頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける。」
更に、別の中国の歴史書、「晋書」辰韓伝(648年編著)でも記述は同様である。
「辰韓は馬韓の東に在り、自らのことを苦役を避けて韓にやって来た秦の逃亡者で、韓が東界のこの地を割譲したので、ここに居住したのだと言っている。城柵を立て、言語は秦人に類似しているので秦韓とも言う。初めは6国あり、後に12国に細分した。また、弁辰があり、これもまた12国で、合計四、五万戸、各々に渠帥がいるが、皆、辰韓に属している。辰韓は常に馬韓人を用いて君主となす、代々の相伝とはいえ、自立することを得ず、明らかに流移の人ゆえに馬韓が全土を制している。土地は五穀の栽培に適しており、習俗は多くの蚕や桑があり、上手に綿布を作り牛を飼い馬に乗る。その風俗は馬韓に類似しており、兵器もまたこれに同じである。初めの子が生まれると、石にその頭を押し付けて扁平にさせる。嬉々として舞い、瑟(しつ)弾く、瑟の形は筑(琴)に似ている。
武帝の太康元年(280年)、辰韓の王は遣使を遣わせて方物を献上した。二年にも再び来朝して貢献、七年にもまた来た」。
この様に朝鮮半島の辰韓(後の新羅)は秦氏を中心として漢土から来た中国人が作った国である。
三国史記・新羅本紀の三十八年条でもう少し詳細な記述を見てみよう。次の記述がある。
「三十八年(前20年)春二月、[新羅は]瓠公(ここう)を派遣し馬韓を訪問させた。馬韓王は瓠公を詰(なじ)って次のように言った。
『辰韓と弁韓とは我が属国である。近年貢物を送ってこない。大国に仕える礼儀としてそのようなことでよかろうか』瓠公(ここう)答えて、
『わが国では二聖が建国してから人間社会の事柄が安定し、天候が順調で穀物倉は充実しており、人々は互いに敬い譲り合っています。(その為)辰韓の遺民を始め弁韓・楽浪・倭人に至るまで(新羅)を畏れないものはありません。それにもかかわらず、我が王は謙虚で、私を遣わして国交を開こうとしているのです。(このようなことは)礼儀に過ぎたことというべきでしょう。』と述べた。
大王は激しく怒り、瓠公(ここう)を脅かした。
すると 瓠公(ここう)は、
『これはいったいどういうつもりなのか』と言った。
馬韓王が怒って彼を殺そうとしたが、左右の重臣たちが王を 諌(いさ)め止(とど)めた。そして、彼の帰国を許した」
以上がその記述であるが、この背景には朝鮮半島南半分の三韓、即ち馬韓、弁韓、辰韓では馬韓が最も勢力のある国だった。ところが中国からの移住民が辰韓に集まることによって馬韓の地位が脅かされ兼ねない情勢になって来たと馬韓王が危惧していたということを意味する。そして後年、この怖れは現実となり辰韓が朝鮮半島を統一して、新羅を正式に名乗ることになる。
因みに、ここに登場する 瓠公(ここう)は元倭人である。或る日、腰に瓢箪をぶら下げて海からやって来たのでこの名がある。いずれにしても辰韓(秦韓)の中に秦始皇帝の血筋を引く者がいたことは十分にあり得ることであろう。その中に少宅秦公の先祖がいたのであり、新撰姓氏録はそれを記述しているのである。
少宅秦公は渡来する前に既に、王・貴族として高い地位にあり、強力な武力、豊かな財力を持っていたと考えて良いのでないだろうか。
太田亮博士も「秦氏は秦韓(辰韓)国の遺民にして、その十二国中の一国たる 斯盧(しら)国、即ち新羅国の勃興と共に次第に衰へ、遂に滅亡の悲運に遭遇し、その王者、並に上流階級人は相率いて我が国に投ぜしに外ならず」と述べる。
尚、同じ新羅本紀巻第一の 始祖(しそ)赫居世(かくきょせい)の条文中に「8年(前50)、倭兵が出兵し、辺境に侵入しようとしたが、始祖には神のような威徳があると聞いて引き返した」と記述している。倭と新羅の関係は紀元前からもう始まっていたのである。ここで言う倭は、この時は未だ大和王権は樹立に至っておらず、北九州辺の倭人を指しているのであろう。
天候の良い日は朝鮮半島南端から対馬が見える。波の穏やかな日には誰でもいつかは渡って見ようと思うであろう。
少宅秦公は先ず筑紫に到着した後、瀬戸内海を東上し、揖保川河口で内陸部に入り、現在のたつの市中心部に居を構えたのであろう。少宅秦公はこの地の酋長として君臨したのである。彼は秦氏らしく堅実で、豪族としてしっかり生きたのである。
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