倭と新羅の関係―続き
更に倭と新羅の関係を続けて見ると、
431年4月条 倭兵が来て東辺を侵略し、明活城を包囲した。戦果を挙げることなく退却した。
440年6月条 倭人が南辺を侵略し、生口(せいこう)(奴隷)を掠取して去った。夏六月、又、東辺を侵略した。
444年4月条 倭兵が金城を包囲して十日経った。兵糧が尽きて退却した。王は兵を出し追撃しようとした。すると、周囲の臣下が進言して、窮寇(きゅうこう)は追ってはならないと言う兵家の言葉がありますと言った。王(訥祇王)はこの進言を聞かず、数千騎を率いて追い掛け、独山の東で合戦した。戦いに敗れ将士の半分以上が戦死した。王は顔面蒼白になり馬を捨て山頂へと上った。賊は幾重にも取り囲んだ。その時、突然深い霧が出て周囲が見えなくなった。賊はこれは陰で神の助けがあるのだろうと兵を引いて帰国した。
459年4月条 倭人が兵船100余艘を以て東辺を襲い、月城を包囲した。四面の矢石は雨の如くだったが王城を守った。賊、将に退却しようとした時、兵を出し撃ちて之を取った。北方に追いかけ海口(浦項付近)に至った。賊の溺死した者は半数を超えた。
462年5月条 倭人が来襲して活開城を落城させ、1000人を捕虜にして去った。
463年2月条 倭人が挿良城を侵略したが、勝つことなく去った。王は伐智(ばつち)・徳智(とくち)に命じ兵を路辺に待ち伏せさせ敵を撃破した。
463年2月条 王倭人が橿場(きょうえき)を何度も襲撃してくるので、この地に二城を築いた。
476年6月条 倭人が東辺を侵略した。王は将軍の 徳智(とくち)に命じて攻撃させ勝利した。殺したり、捕虜にした者は200余人にのぼった。
477年5月条 倭人が挙兵して五道を侵略したが、戦果なく還った。
482年5月条 倭人が辺を侵略した。
486年4月条 倭人が辺を侵略した。
493年7月条 臨海と長嶺に鎮台を置いて倭賊に備えた。
497年4月条 倭人が辺を侵略した。
四世紀後半の新羅(辰韓)と小宅秦公の渡来
以上、三世紀から五世紀までの新羅から見た倭と新羅の関係を通覧した。戦争と和睦の歴史だが戦争は殆ど倭が仕掛けている構図のようだ。新羅から見る倭はいつも理由もなく突然やって来て金品を略奪し、人々を捕虜にして連れ去って行くと述べている。ただこれは新羅の正史の記述なので偏っている面もあろうが、大筋のところでやはり事実に近いのではなかろうか。
日本側の正史、日本書紀には新羅は『神の教えによって、金銀の国を授かろうとしている国』である(神功皇后条)と述べている。神のお告げでは新羅の金銀は召し上げてよろしいと言うことである。新羅にとっては甚だ迷惑なお告げである。
更に、当時勢力を強めていた高句麗も南下して新羅を攻め立てた。倭と高句麗が新羅の争奪戦を展開した形になる。
四世紀前半の辰韓(新羅)は12の小国の寄合い所帯で、辰韓を束ねる王はいたが殆ど権力を持っていなかった。この国の政治は12小国の王たちの合議制で決まっていた。辰韓の12国は大きい国は4000から5000戸、小さい国は600から700戸程度だった。この辰韓に倭と高句麗が絶えず攻め入ったのである。
四世紀前半の倭は未だ初期大和王朝(三輪王朝)であり、日本列島への影響力は局所的に限られていたであろう。従って、「三国志記倭人伝」で言う「倭」は北九州の倭人集団や、朝鮮半島南端(釜山の辺り)に勢力を延ばしていた倭人も含まれていたのであろう。その後、王権が三輪王朝から河内王朝に変化していくなかで、主役は大和王権になったと思われる。或いは、北九州勢力が東上し大和王権を創立したのかも知れない。
従って、初期の新羅侵攻は海からだけでなく、朝鮮半島南端の倭人軍団が仕掛けることも多かったようだ。四世紀後半の神功皇后の新羅出兵は初期大和王朝が奈良盆地に勢力を伸張していた時代であったのであろう。
辰韓12国は伝統的に各国王の独立性が強く、辰韓を束ねる王はむしろ形だけの存在だった。そしてこの12国の中には高句麗寄りの国と倭に好意を持つ国がそれぞれに雑居していたと推測できる。
ところが356年に奈勿尼師今(なもつにしきん)が第17代新羅王として立った時、彼は辰韓12国を統一する意向を鮮明に打ち出し、かつ高句麗寄りの姿勢を明確にした。国名を新羅と新しく名乗ったのも奈勿尼師今である。奈勿尼師今は377年に高句麗と共に中国・前秦に入貢した。そして倭とは対立の姿勢を明確にしている。従って倭の侵攻もこの時期、規模が急拡大している。
いずれにしても、四世紀後半は朝鮮半島全体が動乱の時期であった。それは当時の高句麗が征服王朝として中国方面・ロシア方面・朝鮮半島全部に対し野心を持っていたことに起因する。高句麗と馬韓の戦い、馬韓と新羅の戦いなどが交錯していた。中国はこの時期、五胡十六国の争乱の時代で高句麗の動きを見ているだけで手を出す余裕はなかったのである。
高句麗は長期間に渡って新羅に駐留し王の興廃位にまで介入した。倭軍は新羅軍と戦うだけでなく、新羅軍の中に混じっている高句麗軍とも戦った。
多分、辰韓12国中の一国の王族にあった少宅秦公は 奈勿尼師今の高句麗寄りの一連の姿勢に同ぜず倭国に渡来を決意したと考えられる。時期は奈勿尼師今が新羅王になった356年前後と考えるのが最も妥当である。
「三国史記」編著者の金富軾(きんふしき)は 奈勿尼師今が同姓不婚のルールを破ったことについて批判している。即ち、奈勿尼師今の王母は金氏休礼(きゅうれい)夫人で王妃は金氏の美雛王(みすうおう)の娘だった。
小宅神社の由緒書きが言う「皇后は小宅秦公に韓人を複数名預け」は皇后の新羅戦争における捕虜であろう。捕虜を預けるのは 少宅秦公への褒章であり、また捕虜の身分が高ければ少宅秦公も良く知っていた人物だったのではなかろうか。
倭国の新羅攻撃は四世紀中頃から五世紀にかけて規模が大きくなっている。神功皇后が関わった戦闘は364年頃と言われている。
古代を眺めると、中国・朝鮮・日本の関係は戦争も含めて人と文化文物がかなり自由に相互往来をしていたようだ。これら三国の文化的土壌は似通っており、羊羹をどこで切っても羊羹である様に極めて近い文化的基盤を持っていたと言える。
倭が新羅に攻め込んだ目的は金品を奪うことと先進技術を奪うことだった。ただ、新羅側から言えば倭軍は捕虜を連れ帰ったと言う表現をする。例えば、「倭人、襲いて活開城を破り、人一千を虜(とりこ)にして去る」と言う表現があるが、「人一千」は誇張表現としても、多数を連れ帰るのは舟の準備も含め時間を要する仕事である。むしろ、住民は家族を含め、或いは村ごと全部で同意しての倭への移住もあったのではないか。倭から言えば彼らは、「倭王の徳を慕って移住した」と記述し、新羅から見れば「捕虜略奪」と記述するのである。
この時期を含めた前後1000年間に於ける朝鮮半島から倭国への人の移動(弥生後期)は、 人口統計上、100万人を超えたと言われている。それは、単に通常捕虜と言われる範囲の人の移動で説明し切れるものではない。そして彼らの大部分は西日本。近畿を中心に住みついた。
彼らは倭国に住み、結果的に倭の文化・文明・技術の発展に大きく貢献した。また、この大移住で日本は新しい時代に向かって大きく歯車を回転させた。古代の大王は総じて外国人の移住に寛大で積極的に受け入れたのである。それは自らも又、大陸からの移住者だったからであろう。
少宅秦公(をやけはたのきみ)と神功皇后の接点
さて、小宅神社由緒は前述したように、「小宅宮の儀(ぎ)は漢部(かんぶ)の里(り)小宅秦の君(きみ)神功皇后三韓(かん)御征伐(ごせいばつ) 御還上(ごくわんじょう)の御船(おふね)萩原(はら)の里に碇泊(ていはく)せられし時、(少宅秦公は)誉田天皇の庶兄鹿耶坂忍熊二王(わう)の変(へん)あらんことを聞き(神功皇后に)奏上(そうじょう)しければ」と記述している。
「日本書紀」の神功皇后条では、「香坂王(かごさかのみこ)・ 忍熊王(おしのくまのみこ)の策謀」と題する記述がある。
「仲哀天皇九年二月に仲哀天皇が52歳で病気の為崩御した。神功皇后は同年9月10日に挙兵し、10月3日、鰐浦(わにうら)(対馬の最北端の港、晴れた日には朝鮮半島が見える)から三韓征伐(三韓とは馬韓・辰韓・弁韓)に出発された。無事勝利をおさめて筑紫に帰国し、12月14日に筑紫で応神天皇を産まれた。
神功皇后は新羅を討った翌年二月に群卿百寮を率いて 穴門(あ な と)の 豊浦宮(とよらのみや) (現在の山口県下関市豊浦村、仲哀天皇の九州遠征時の 行宮(あんぐう) があった。)に移られ、天皇の遺骸をおさめて、海路より瀬戸内海を難波に向かわれた。
時に 香坂皇子(かごさかのみこ) ・忍熊王(おしくまののみこ) (応神天皇とは異母兄弟。仲哀天皇は神功皇后と結婚する前に大中媛(おおなかつひめ)を妃として、香坂皇子(かごさかのみこ) 、忍熊皇子(おしくまのみこ) の二子をもうけていた)は実の父(仲哀天皇)は亡くなり、皇后は新羅を討ち、新たに息子(応神天皇)が生まれたと聞き、密かに謀っていうには『いま皇后は御子ができ、群臣は皆従っている。きっと共に 議(はか)って幼い王を立てるだろう。吾らは兄であるのに、どうして弟に従うことができようか』と。そこで亡き天皇の陵を作ると偽って、播磨の明石に山陵を立てるとし、船団を作って 淡路島の石を運んだ。人毎に武器を取らせて皇后を待った。犬上君の先祖の倉見別(くらみわけ)と、吉師(きし)の先祖の五十狭茅宿祢(いきちすくね)は共に 香坂皇子側についた。そして、将軍として東国の兵も呼び寄せた。香坂皇子・忍熊王は共に 菟餓野(とがの)に出て神意を伺う占いをした。『もしこの戦いが勝利であれば、(今日は)きっと良い獲物が取れるだろう』と言いながら、二人の王は仮の桟敷(さじき)にいた。すると、赤い猪(いのしし)が急に飛び出し桟敷に駆け上がり、香坂皇子を喰い殺した。兵士たちは皆怖気(おじけ)ずいた。忍熊王は倉見別に語って、『これは大変なことだ。ここでは敵を待つことはできない』と。軍を率いて退却し住吉にたむろした。
皇后は忍熊王が軍を率いて待ち構えていると聞いて、武内宿祢(たけうちのすくね)に命ぜられ、皇子を抱いて迂回し、南海から出て紀伊水門(みなと)(紀ノ川の河口)に 泊(とま)らせられた。その後、皇后の船は真直ぐに難波に向かった。」
即ち皇后一行は明石海峡を避け、大きく淡路島を迂回して鳴門海峡廻りで紀ノ川河口(紀伊水門(みなと) )に達し、そこから難波に入り難を逃れたことになる。
日本書紀は、以上の記述をした後、忍熊王が武内宿祢(たけうちのすくね)によって討ち取られた経緯を述べている。
日本書紀は「皇后は忍熊王(おしくまののみこ)が軍を率いて待ち構えていると聞いて・・・」と書いているが何処で、誰から聞いたかについては触れていない。しかし、小宅神社由緒と合わせると、神功皇后は「御船が(針間(はりま)の)萩原里(はりはらのさと)に停泊中に少宅秦公から聞いた」と分かる。少宅里と萩原里は共に揖保川に沿って東西に2kmほどの距離にある。
神功皇后の在位は321年から389年が通説とされており、この事件があったのはこの間の在位後半の時期であったと思われる。
以上の経緯を見ると、少宅秦公は河内王朝創立の播磨における協力者と言う位置付けになる。
香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)の反乱について、和気氏との関係で説明する次の伝承もある。
神功皇后が新羅を征して凱旋し、都に帰ろうとした時、香坂皇子・忍熊王の二皇子が謀反に及んだ。忍熊王は明石に兵を構えて明石海峡を海上封鎖し、皇后らの帰途を待ち伏せした。それで、皇后は弟彦王(おとひこのみこ)を遣わせた。弟彦王は忍熊王の軍を吉備と播磨の境で撃破して、忍熊王を誅殺した。弟彦王はその軍功によって吉備の磐梨郡(いわなしのこほり)を与えられた。磐梨郡は後の和気郡である。弟彦王は後の和気朝臣の一族の祖先である。
日本書紀は、忍熊(おしくま)・香坂(かごさか)の二皇子は兵を興し菟餓野(とがの)に出て神意を伺う占いをした際に、赤い猪(いのしし)が急に飛び出し 桟敷(さじき)に駆け上がり、香坂皇子(かごさかのみこ)を喰い殺したと記しているが、和気氏の祖先(弟彦王)の名は出ていない。だが、猪は和気氏を象徴するトーテムアニマルである。和気清麻呂が大隅に流される時、その道中を 野猪(のじし)が護(まも)ったとされる。また、京都御所蛤御門前にある和気清麻呂を祀る護王神社には、狛犬(こまいぬ)ではなく狛猪(こまいのしし)が置かれている。従って、日本書紀は猪と言う表現で、弟彦王の勲功を記述したとも解釈できるのだそうだ。
日本書紀は忍熊王(おしくまののみこ)を討ったのは武内宿祢(たけうちのすくね)とするが、実際は弟彦王(おとひこのみこ)と共同作戦で 忍熊王(おしくまののみこ)を討ち取ったのであろうか。
弟彦王とは皇后の弟の彦王ではない。垂仁天皇の第五皇子である鐸石別命三世の(ぬてしわけのみこ)曽孫(ひまご)で和気氏の先祖である。弟彦王(おとひこのみこ)は針間(はりま)と吉備の境(備前市三石(びぜんしみついし))に関を設けて戦ったとされている。和気氏一族はこの勲功により、その後この地方の郡司となって繁栄した。
川原若狭(かはらのわかさ)と卑弥呼
新撰姓氏録では川原若狭(かはらのわかさ)は河原連(かわはらのむらじ)として出自を河内国、「広階連(ひろはしのむらじ)と同祖で 陳思王植(ちんしおうしょく)の後也」とする。
陳思王植とは魏の武帝、曹操(そうそう)(紀元155年〜220年)の三男の曹植(そうしょく)(紀元192〜232年)のことである。曹植は陳王に封ぜられていたので陳思王と呼ばれていた。曹植は生まれながらにして才能に恵まれ、父曹操から特別に寵愛を受けて育った。合戦に赴く時も曹操は兄の曹丕(そうひ)ではなく曹植を伴うことが多かった。兄は一人居城で留守番である。その様な環境の中で兄の曹丕は次第に弟曹植を自分の地位を脅かすとして快く思わなくなった。
曹操没後、曹丕・曹植の部下たちが帝位を争ったが結局曹丕が帝位についた。その後、兄は事あるごとに弟を冷遇し、僻地を転々とさせた。曹植の側近たちは悉く兄によって殺害され曹植は天涯孤独だった。曹植の前半生の幸福と華麗さは一変し、後半生は失意と苦渋の生涯に変わった。
曹植は絶えず任地を変更され、都洛陽から遠く離れた辺鄙な土地を転々とさせられたが、亡くなったのは最後の赴任地・河南省淮陽(かなんしょうすいよう)(山東半島の根元の部分、墓地は東阿にある)で黄海に近い場所である。古来、この地方からは黄海を横断して九州に行くルートがあった。
もう一つの日本行きのルートは朝鮮半島の西側沿岸を航海して済州島(チェジュトウ)(三世紀頃は 州胡(しゅうこ))に行き筑紫に至った。筑紫に達した後は瀬戸内海を経て、揖保川河口から内陸部に入れば少宅里に達する。これら二つのルートによる中国からの渡来は紀元前300年頃から始まっており、700年頃まで凡そ1000年間続いている。曹植の没した場所から類推すれば、曹植の子孫や縁者たちがこのルートを利用して日本に渡ることは十分にあり得ると考えるのが自然である。川原若狭一族もその例に漏れない。
曹操の活躍する時代は、所謂「三国志」の時代で、中国は魏・呉・蜀の三国に分かれて覇権を争っていた。魏は曹操、呉は孫権、蜀は劉備である。魏は華北(中国北部)を支配し都は洛陽にあった。曹操は220年に敵の襲撃により死し、曹丕が後を継いだ。226年に曹丕も死去し、曹丕の長男の曹叡(そうえい)(明帝)が後を継いだ。曹植はこの時、まだ生きていたが帝位に付く事にはならなかった。
劉備亡き後の蜀は、丞相諸葛亮(しょかつりょう)(孔明(こうめい))が自ら軍を率いて 曹叡(そうえい)の魏へ侵攻した。しかし、曹叡は 司馬懿(しばい)を使って、首尾よく諸葛亮(しょかつりょう)軍を撃退し、その後は魏の時代が暫く続くことになる。
邪馬台国の卑弥呼が朝貢の使者を出したのは、この曹叡(明帝)に対してである。曹叡は川原若狭の祖先曹植にとっては甥である。倭人が中国に使者(使訳)を出すのは、この時が始めてではない。紀元前二世紀頃から、中国とはかなり頻繁に使訳を交換していた。
「魏志・倭人伝」(編著者は陳寿(232―297))は次の様に述べている。
『景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。』
☆ 景初二年(238年)六月、倭の女王(卑弥呼)が難升米等(田道間守(たじまもり)とする説もある)を帯方郡に派遣して、天子(曹叡・明帝)に朝献することを求めてきた。それで郡長官の劉夏(りゅうか)は役人を付けて京都(洛陽)まで案内させた。因みに、曹植は232年に没している。
この朝献に対して、曹叡(そうえい)は次の詔書(天子の発する公文書)を発す。
『親魏倭王卑弥呼に勅(ちょく)を下す。帯方の太守劉夏が遣わした役人が、あなたが献じた男生口(男奴隷)四人、女生口(女奴隷)六人、木綿の布二匹二丈を持参した大夫難升米・次使都市牛利の二人の使者を案内して到来した。あなたの住む所は遥かに遠いが、使いを送って貢献してくれた。これはあなたの忠孝心の表れであり、深く受け留める。今、あなたを親魏倭王となし、金印紫綬を仮に与え、帯方の太守に授けさせる。あなたはあなたの種族の人をいたわり、その人たちに尽くせ。あなたの遣わした二人の使者、大夫難升米・次使都市牛利は遠路、遥々まことにご苦労であった。難升米には率善中郎将(中国の官名。将軍に次ぐ位で、殿門宿衛を司った。)、牛利には率善校尉(中国の官名。宮城の防衛や西域鎮撫などに当たった武官。)の官位を与え、それぞれに銀印青綬を仮に与える。また、彼らの労苦を労って接見した上で物品を与えて帰らせた。
今、絳地(こうち)交竜錦五匹・絳地スウ粟(ぞく)ケイ十張、セン絳(せん)五十匹、紺青(こんじょう)五十匹をお返しとしてあなたに贈る(匹は反物を数える単位)。また、特別にあなたに紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百牧、眞珠、鉛丹各々五十斤を賜い、みな装封して難升米、牛利にわたす。二人の使者があなたの国に帰り着いたら、受け取ってほしい。あなたの国の全ての人に国家魏があなたを支援していることを國中の人に示しなさい。』
さすが 曹操の血筋を引く明帝、名文と言える。側近が書いたのであろうが、明帝の眼も光っていたのであろう。ここに言う「銅鏡百牧」が、権現山古墳などで見つかっている三角縁神獣鏡だとされている。
翌年(240年)、中国側から大使が倭に赴き、詔書・印綬を持参して、卑弥呼に拝謁している。この時、更に中国側から金帛や鏡などが贈られた。
その後も243年、245年、247年と、卑弥呼と魏の間に大使(使訳)の往来があった。魏は、軍事の専門家なども派遣して卑弥呼を応援したようだ。
248年、卑弥呼は老齢の為、死去した。
「魏志・倭人伝」は卑弥呼朝貢記述の数十行前に、卑弥呼の居住する邪馬台国への経路を書いている。
「帯方郡(現在のソウル近辺、此処に魏の郡役所があった。)から、朝鮮半島の海岸に沿って南東に航行し、金海(釜山)まで行く。それから対馬に渡り、続いて壱岐に行き、九州の松浦郡に行く。この港から陸路で五百里離れた所に伊都国がある。伊都国から、女王の居住する邪馬壱(台)国へ行くには、『水行十日、陸行一月』かかる。家は七万戸ほどある。」当時の航海は天候の良い日を選んで、沿岸に沿って行く航海であった。気候の良い季節、六月などが絶好の航海日和だった。
川原若狭の祖先・曹植
さて、川原若狭の祖先・曹植は文学的才能に恵まれた人であった。「年十才にして、すでに数十万字にもなる詩文と辞賦を読み、上手に文章を書いた」(『三国誌・陳思王植伝』)。幼い頃から、才智を現し、「七歩を歩く間に良い詩文を作り出した」(七歩詩)という。その詩文は優雅な風格、華麗な辞句、深い気骨に溢れていた。龍野に文人が多いのはこの川原若狭の血を受け継いでいると言うと言い過ぎになるのであろうか。
曹植の性格について、陳寿は「性簡易にして威儀を治めず。輿馬服飾華麗を尚(とおと)ばず。(おおまかで細かいことに拘らず、堅苦しいことが嫌い。乗り物や服装は華美なものを嫌った)と記す。曹植は正室の子ではあったが三男であったため、本来まず後継者と目されることは無い立場にあった。しかし、その才能が広く知れ渡りやがて誰もが認めるようになると、慣習や伝統より個人の才覚を重んじる曹操は、長男である曹丕(そうひ)を差し置いて、三男である曹植に目を掛け、後継者に指名したいとまで考えるようになった。その意を察した曹植の側近たちは、盛んに擁立運動をはじめ、すでに実質上、太子の地位を与えられていた兄曹丕と、王位継承を巡って激しく対立することになる。曹植は余りに有り過ぎた才能の為に周囲から妬まれ、結局晩年は恵まれなかった。しかし優れた文学作品が永く後世に残され「大詩人といえば曹植」が定着した。
新撰姓氏録は自己申告に基づいて編纂されたとされる。もし、川原若狭が自己の出自を誇示したいのであれば、何故、百万の兵を率いて合戦に臨んだ乱世の英雄、曹操の末裔としなかったのであろうか。或いは、卑弥呼が朝見した魏の明帝の末裔にしなかったのであろうか。曹植は不世出の詩人に過ぎず権勢を極めた人物では無かった。むしろ、不遇の内に、悶々と後半生を送った人物である。川原若狭にとって曹植は己が出自を誇るのに最も相応しい人物とは言い難いのではないだろうか。それだけに真実の香りがする。
中国と日本の国交は、卑弥呼の後も頻繁に行われていた。曹植の子孫が、中国の使者と共に(同じ船で)、日本に移住することなど大いにあり得ることである。王家の子孫ともあれば『「魏志」倭人伝』、その他、倭に関する情報も多く持っていた可能性は高い。倭人・倭国の事情を熟知した上で、川原若狭 一族は渡来し、揖保川流域の漢部里に居を構えたのであろう。
この時の航路が、前述した卑弥呼の使者と同じ経路だったとするのが自然である。洛陽からであれば帯方郡までは陸路、帯方郡からは朝鮮半島に沿って船で南下し、釜山、対馬に至る。陳のある山東半島西の地域からであれば、直接船で黄海を渡って対馬に至ることもできる。そして対馬から、壱岐、筑紫(北九州)を経て伊都国に留まる。そこから、瀬戸内海を「水行十日」し、瀬戸内海の沿岸の何処かで陸路に切り替えた。陸路に切り替えるには陸路が整備されていなければならない。大宝律令以前では播磨までは陸路は難所続きであった。
そこで播磨西部で始めて陸路に切り替えられる時期があった。卑弥呼の使者も川原若狭もその時期の旅人だったのだ。「陸路一月」の陸路の出発点が播磨西部の「漢部里」だった時期がある。川原若狭はその通行の中で揖保川流域の倭に向かう途中、漢部里の居住を決意したのであろう。
古代豪族の生活
ところで大化改新前の古代豪族の生活はどの様なものであったのだろうか。それは「氏」を中心に構成され、一般に氏姓制度と呼ばれるものであった。「氏」は「同じ血統から出た家々の集まり」、であり、「血縁集団」を表す。しかし実態は、下に多くの非血縁者、即ち 部曲(かきべ) (豪族の私有民で、それぞれ職業を持っていた。主家の名を冠して呼ばれた。―少宅部(おやけべ)など。)や奴婢(ぬひ)(召使いの男女。奴(ぬ)は男子、婢(ひ)は女子である。官が所有すると 公奴婢(くぬひ)であり、私人が所有すると 私奴婢(しぬひ)と呼ばれた。)を従えた社会集団だった。部曲や 奴婢は主人の為に一生懸命働く。奴婢は資産であり売買もされていた。奴の値段は稲束にすると、一人1000束から1200束、婢は800束から1000束、子どもは600束から800束である。一束から米五升が獲れる。奴でも「車匠(くるまだくみ)」など特殊な技術を持っていると1400束などの高値がついた(「正倉院文書」)。
身分の高い者は通常、四、五人の妾(しょう)を持っていた。妻と妾に大きな違いはなく、一番最初の女性が妻、二番目からは妾であった。身分的に差別されることは少なかったようだ。古代では一般に女性は大事にされていたようである。
さて、一つの家族集団はどれくらいの規模であったのか。宮廷豪族では奴婢は600人と言う例もある。地方豪族の 肥君猪手(ひのきみいで) (筑前国嶋郡川辺里(ちくぜんのくにしまのこほりかわのべのさと) )の記録が千年以上も東大寺正倉院宝庫に眠っていたのだが、それが最近明らかになった。それによると、肥君猪手の家族集団の総数は124戸口(人)もあった。内訳は血縁者61名、両親、祖母、肥君猪手の妻と妾、その子、孫、肥君猪手の弟や妹夫婦とその子、従兄夫婦とその子たちである。次に 寄口(きこう)26人、寄口とは 肥君猪手と血縁はないが、肥君猪手と従属関係の中で暮らしているグループである。寄口は良民として区分されていたようだ。そして奴婢37人であった。奴婢は生まれたての赤ん坊から60歳代まで年齢の巾がある。
この記録が取られたのは大宝二年(702)で、肥君猪手は53歳、郡司だった。因みに、肥君猪手の祖母の名は宅蘇吉志須弥豆売(たこそのきしすみずめ)(65歳)と言い、恰土郡(いとのこほり)(伊都国か)出身の渡来系貴族である。
時代は百年ほど遡るが、小宅秦公の家族集団も肥君猪手のそれと大同小異であったろう。
小宅秦公が 神功皇后から預かった「韓人複数名」はさしずめ、寄口と言うことになろう。
隋書で見る小宅若狭の生活
推古天皇十六年(608年)、聖徳太子摂政の頃の現「たつの市」では小宅(川原)若狭が生活していた。この頃の生活の様子は中国の歴史書『「隋書」東夷伝 ・倭国 』に書いてある。
書名の「東夷(とうい)」は、古代中国人が東方の異民族、即ち東方の海上に住む野蛮な人々を「東夷 」と称していたことに依る。因みに、「西戎(せいじゅう)」(西夷(せいい)とも言う)はトルコ族・チベット族など西方の野蛮な異民族を指し、「南蛮(なんばん)」はインドシナなど南海の野蛮な諸民族を指し、「北狄(ほくてき)」は 匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・韃靼(だったん)など北方野蛮な異民族を指す。これらの言葉の背後にあるのは、中国こそが文化・文明の中心(中華思想)であり、周囲には野蛮な異国人がいると言う思想である。
「倭国は百済・新羅の東南にあり。水陸三千里。大海の中において、山島に依って居る。
魏(三世紀頃)の時、譯(使者)を中国に通ずるもの三十余国、皆自ら王と称す。夷人里数を知らず。ただ計るに日を以てす。その国堺は東西五月、南北は三月行にして、各々海に至る。その地勢は東高くして西下り、邪靡堆(やまと)に都す。即ち、『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。古よりいう「楽浪郡(現在の平壌(ぴょんやん)の南部)境および帯方郡(朝鮮半島楽浪郡の南部)を去ること並びに一万二千里にして、会稽(江蘇省)の東にあり、儋耳(広東省)と相近し」
この書の選者・魏徴は六世紀末から七世紀前半の人である。七世紀初頭の中国人が見た日本観が描かれている。大意は次のごとくか。
(倭国は百済・新羅の東南にある。現在の地図で見れば南とすべきであろうが、当時は正確な地図があったわけではないので、この様な土地勘を持っていたと言うことであろう。
(倭国は)大海原の中にあって島々から構成されている。三世紀頃、中国に使者を 遣(よこ)す国が三十以上あった。それら各国の主は自らを王と名乗った。この異国人たちは里数で距離を数える方法を知らず、何日かかるかで距離を計った。東西は五ヶ月、南北は三ヶ月の歩行で海に出る広さである。地勢は東が高地になっていて、西へ行くほど平坦になり、邪靡堆 に都がある。『魏志』で言う邪馬台である。楽浪郡辺りから一万二千里の距離、大陸の会稽(江蘇省)や儋耳(広東省)から比較的近い。)
原文は以下の通りである。
(倭國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,於大海之中依山島而居。魏時,譯通中國。三十餘國,皆自稱王。夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。)
倭国の世相
当時の世相の描写はこの文章の後にある。次の如き記述がある。
「男子はすその短い衣服を着ている。履物 は 木靴 の形をしたもので、表面に漆が塗られている。庶民は大方裸足(はだし)である。衣服は横幅が広いもので結束して互いに連ね縫うことはしない。頭に冠はなく、髪の毛は両耳の上に垂れている。隋の時代になって、始めて倭国王は冠を付ける様になった。
人を殺したり、強盗および姦するものはみな死刑になる。盗むものは盗んだものを計って物を酬いさせ(弁償させ)、財のないものは身を没して奴(ぬ)とする。 それ以外は、軽い重いによって、あるいは流し、あるいは杖でうつ。獄訟をといただすごとに、承引しないものは、木をもって膝を圧(おさ)えつけ、あるいは強弓を張り弦をもってその項(うなじ)を鋸(のこぎり)のようにひく。あるいは小さい石を沸湯(煮え立つ湯)の中におき、競うものに、これを探らせて「理の曲がっているものは、すぐに手が爛(ただ)れる」という。あるいは、蛇をかめの中においてこれを取らせ「曲がっているものは、すぐに手を蟄(さ)される」という。 人はすこぶるものしずかで、争訟はまれだし、盗賊は少ない。・・・。男子は多くうでに入墨し、水にもぐって魚を捕える。文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶだけ。仏法を敬う。・・・。卜筮(ぼくぜん)(うらない)を知り巫覡(ふげき)(巫女(みこ) 、神に仕えて祈祷する人)を信じる。正月一日になるごとに、かならず射戯・飲酒する。その余の節はほぼ中国と同じである。棋博(きはく)(囲碁)、握槊(あくさく)(すごろく)・樗蒲(ちょぼ)(ばくち)の戯が好きである。
気候は温暖で、草木は冬も青く土地は肥えうつくしく、水が多く陸が少ない。小さい環(わ)を鵜(う)のくびにかけ、水に入って魚を捕えさせ、日に百余頭は得られる。習慣では 盤俎(ばんそ)(さらまないた)がなく檞(かし)の 葉をしき手ずかみで食べる。性質は素直で雅風がある。・・・。新羅・百済はみな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰(敬い仰ぐ)しつねに通使・往来する。大業三年(煬帝、推古15年・607年),其の王多利思孤(たりしひこ)(聖徳太子)が 使(つかい)(小野妹子(おののいもこ))を遣わして朝貢した。・・・。その国書には『日出ずる處の天子が、書を日沒する處の天子に致す、恙(つつが)なきか 云云 』とあった。帝 はこれをみて 悅ばず,鴻臚卿(こうろけい)(外務大臣)に命じた、『蠻夷(ばんい)の書に無禮あり,今後この様な書を聞かせるでない』と。明年(大業四年、推古16年・608年)),煬帝は文林郎裴清(はいせい)を使として、倭國に遣わした。」この頃の住居環境については首長や身分の高い者は高床式の立派な建物に住み、その他の者は 竪穴住居(たてあなじゅうきょ)に住んでいたようだ。
秦始皇帝
少宅秦公の始祖とされる秦始皇帝について一応概観してみよう。
「秦王は蜂のような形をした高い鼻、切れ長の目、猛禽(もうきん)のように突き出た胸、 豺(やまいぬ)のような声をしている。慈悲のかけらもない虎狼(ころう)のような心を持った王だ」
これは秦王と会談を終えて出てきた尉繚(うつりょう)の言葉である。尉繚は魏から秦に遊説に来ていた人物だが、さしずめ現代で言えばコンサルタントのような仕事をしていたのであろう。秦王に対しては「六国(韓・魏・趙・燕・斉・楚)の重臣に賄賂(わいろ)を贈って、骨抜きにせよ」と言うのが彼の提言だった。秦王はこの提言を評価して 尉繚を顧問として登用した。
秦始皇帝(しんしこうてい)、生まれは紀元前259年、名前は政(せい) 、父は秦の荘襄王(そうじょうおう)である。母は趙姫(ちょうき)。政(せい)の誕生の経緯について次のように云われている。
当時、趙の都に呂不韋(ふりょい)という商人がいた。彼は河南省(かなんしょう)の人で、商人として活躍していたが 趙の都、邯鄲(かんたん)(現在の河南省)で,人質となっていた秦の太子の子(子楚(しそ) )と会った。その時、「これ 奇貨(きか)なり。居くべし」(これは珍しい品物だ。買って置くべきだ)と言ったと伝えられている。
子楚は当時の秦王(昭襄王)の 太子安国君(たいしあんこくくん)(後の孝文王(こうぶんおう))の子であったが、安国君には20人以上の子があり、子楚の母は既に安国君の寵愛を失っていたので、子楚が王位を継ぐ可能性は低かった。この時秦は趙と対立しており、その趙に人質に出すと言う事は死んでも惜しくないと言う事で 子楚の待遇は悪く日々の生活費にも事欠くほどであった。しかし呂不韋はこの子楚を秦王にし、その功績を持って権力を握り巨利を得る事を狙ったのである。呂不韋は秦の国に行っていろいろ画策を行い、子楚を安国君の跡継ぎにすることに成功した。趙に帰った呂不韋は子楚にこの吉報を知らせ、呂不韋は子楚の後見人となったのである。
その頃、呂不韋はひとりの芸者を寵愛していたが、子楚がこの女を気に入り、譲って欲しいと言い出した。呂不韋は乗り気ではなかったが、ここで断れば今までの出資が無駄になると思い 子楚に女を渡した。この女は既に呂不韋の子を身篭っていたが、子楚にはこれを隠し通し、そのまま 子楚の子と言う事にしてしまった。これが 政 (後の秦始皇帝)である。
紀元前252年、秦で昭襄王が死に、孝文王が立つと子楚は秦に送り返されて太子となり、その後、すぐに孝文王が死んだために即位して荘襄王(そうじょうおう)(安国君)となった。呂不韋は丞相(じょうそう)(今で言う総理大臣)となり、欲しいがままの権勢を振るった。紀元前246年、荘襄王が死に、政(この時、13歳)が秦王となった。呂不韋の権勢はますます大きくなり、3000人の食客を集めた。呂不韋家の召使は10000人を超えたと言われる。客の中に李斯(りし)(後の始皇帝の宰相)がおり、才能を見込んで王に推挙した。権勢並ぶものが無い 呂不韋は元の愛人の太后と密通していた。元々、太后が荘襄王が死んで物足りなくなったので呂不韋を誘ったのだが、政が大きくなるにつれてこの関係を続かせるのは危ないと感じた呂不韋は嫪(ろう)アイと言う別の男を紹介した。太后は嫪アイに夢中になり子を二人生んだ。嫪アイはその後、権勢を振るったが太后との密通が発覚して誅殺(ちゅうさつ)された(前238年)。政は呂不韋をも殺す事を望んでいたが、今までの功績を重んじて丞相の罷免と蟄居に留めた。
紀元前236年、呂不韋はその後も客と交流する事を止めなかったので、政は呂不韋が客と謀って反乱を起こすのではないかと恐れて詰問する手紙を送り、蜀への流刑とした。この事に呂不韋は絶望して、翌年服毒自殺を遂げた。(母太后は228年没)。
以上、政の出生については 司馬遷(しばせん)の『史記』呂不韋列伝に書かれている内容が元になっているのだが、司馬遷が少々面白く作り過ぎたのではないかという異論もある。司馬遷が『史記』を書いたのは前漢の時代であった。劉邦(りゅうほう)が秦を倒して前漢を樹立したのだが、当然、倒した国(秦)を「悪」と設定し、現政権(前漢)を「善」とした態度が貫かれていると考えるべきであろう。『漢書』ははっきり「呂政(ろせい)」と明言してはばからない。「始皇本紀」は呂不韋の件については全く触れていない。
秦の国は 政が王になる六代も前から法家思想が徹底していた。即ち「人間の性は悪で、恐怖によってのみ抑制できる」というのがその考えで、「秩序ある国では刑罰は多く、報償は少ない」である。秦王、政は前230年に韓を滅ぼすと、以後「桑の葉を貪る蚕のように」次々と周辺国を平定した。これらのめざましい成功は入念に練り上げられた計画に裏打ちされていたようだ。そして前221年、政 38歳の時、中国統一を成し遂げた。そして彼は自らを「初代皇帝」と名乗り、「朕を始皇帝とし、後世は計数をもって二世、三世より万世に伝えて行くことにする」と宣言した。
その後、病気で倒れるまでの11年間、始皇帝は才能をあますところなく発揮して大帝国を作り上げた。秦の国内でこれまで実施していた郡県制を全土に適用し、中央政府による直接統治を実現した。すなわち、咸陽(秦の首都)を権力の中枢として、帝国を36の行政区(郡)に分け、その郡の下に県を置いた。郡県には中央が任命した官吏を派遣して統治した。遠隔地にある郡県との間には 馳道(ちどう)と呼ばれる幹線道路を敷設し咸陽と結んだ。馳道 の要所要所には軍の駐屯地が設けられた。道幅は15メートル、3車線あって中央は皇帝専用の車線だった。
また度量衡や文字・貨幣を統一し、さらに交通網を整備して行政の能率化をはかるなど、統一国家を維持するためにさまざまな改革をほどこした。特に重要なのは文字の書体を統一したことだった。戦国列強が様々に変形して使用していた 大篆(だいてん)(漢字の書体の一つ)を最も一般的に使用されていた3000文字に絞り込み、書体は小篆(しょうてん)に統一した。以後の漢字はこれが母体になり発展したのである。
始皇帝の人となりは詳しくは分かっていない。寵姫の名前も分かっていない。子どもは20人以上いた。三度、暗殺の危機に遭遇した。しかし、すぐれた決断力と細心なまでの注意深さ、そして現代ビジネスマン同様「昼も夜も休みなく働いた」ということが伝えられているだけだ。
国家統一は、思想・言論の統制にまでひろげられ、焚書坑儒によって儒家を弾圧した。始皇帝は国中の書物を焼き捨てることを命じ、抵抗した学者には汚名をきせ長城の築城工事に追いやった。頑強に抵抗した学者たちは生き埋めにされることもあった。ただし、『資治通鑑(しじつがん) 』』(1065年に編纂された中国の編年体の歴史書)の秦紀には「秦の焚書は、天下の人々が所蔵する書物を焼いたにすぎない。 博士官に所蔵されているものは、元通り存在していた。 項羽(こうう)が秦の宮殿を焼いた時に、はじめて博士官の蔵書も一緒に焼き捨ててしまった」と書いているそうである。また、医学・占い・農業などの実用書は初めから対象外とされていた。
この時代の中国は、中原の漢人と揚子江以南の人びととは、言葉も通じず、主食などの食習慣もまったく違っていた。秦の始皇帝がいなかったら、中国は現在のヨーロッパのように複数の小さな国家に分裂してしまっていたであろうと言われる。
史記は「七月丙寅(しちがつへいいん)、始皇(しこう)、沙丘(さきゅう)の平台(へいだい)に崩(ほう)ず」と記している。即位から37年目、50歳だった。始皇帝は死の直前、趙高(ちょうこう)に命じて次のような書面をつくらせ、公子扶蘇(ふそ)(始皇帝の長男)に賜(たまわ)った。「軍を蒙恬(もうてん)(秦王朝の名武将)に依属し、咸陽(かんよう)に帰ってわが遺骸を迎え葬儀を行え」。書面は封印されたが、まだ使者に授けられないうちに、始皇は崩御した。その書面と印璽(いんじ)はみな趙高のもとにあった。公子胡亥(こがい)(始皇帝の末子)丞相 李斯(りし)・趙高および始皇に寵愛された宦者五、六人だけが始皇の崩御を知っており、その他の群臣は皆知らなかった。李斯は、主上が都の外で崩御し、正式の太子がいないのを考慮して、ことを秘密にした。始皇の遺骸を車の中に置き、咸陽までその死を隠したまま帰ってきた。
そこで、趙高は公子胡亥、丞相李斯と密かに謀って、始皇が公子扶蘇に賜うた書を破り捨て、偽って丞相李斯が始皇の 遺詔(いしょう)(遺言)を沙丘(河北省)で受けたとして、改めて璽書(じしょ)を偽造した。その内容は胡亥を立てて太子とし、扶蘇と蒙恬にはその罪過を責めて自刃を命ずるものであった。蒙恬はその詔書に疑いを持ち、強く死を思いとどまらせようとしたが、扶蘇は結局自殺した。
こうして 胡亥(こがい)が二世皇帝になったが、ひとり宦官趙高(かんがんちょうこう)が権勢をふるい、宰相李斯を始め他の大臣、将軍、公子、皇族までも迫害し殺害を始めた。この時、20人以上いたと言われる始皇帝の公子たちの多くは殺害されたと見られているが、公子の中には一族郎党を率いて新しい天地を求め、中国全土に逃亡した人物も居たに違いない。
始皇帝の子孫と辰韓王家
胡亥によって自殺させられた始皇帝長男扶蘇の子(胡苑)が朝鮮半島東南端に逃れ、秦韓を建てたと言う説もある。「秦の始皇の孫、胡苑が漢の恵帝元年丁未(紀元前194年)苦役を避けて来て韓地に逗まっているのを見て、韓王がその東界百里の地を割き与えた」という伝承が残っている。そして四世紀後半になって、秦韓(しんかん)から新しく新羅が興った時、旧秦韓の王家一族は 新羅建国に関わる政治的混乱を嫌って、日本への移住を決意したのであろう。一般に中国は戦乱の世にあって、敗れし者は朝鮮半島に逃げ込むことは極めて一般的に行われていたのではないだろうか。
『北史 』(中国の二十四史の一。唐の李延寿撰。659年成立。公正・詳密な記述で史料的価値が高い)、『梁書 (りょうじょ)』(中国の二十四史の一。南朝、梁四代の歴史を記した書。唐の太宗の勅命により姚思廉・魏徴らが撰。629年成立)の 諸夷伝(しょいでん)は、新羅について「言語、名物、中国人に似たり」と記している。その理由を「居するに秦人を以ってす、故にこれを名づけて 秦韓(しんかん)という」とも追記している。さらに遡って『魏志』東夷伝は、辰韓は「その言葉、馬韓(百済)と同じからず、秦人に似るあり」として、この地の人たちが朝鮮半島の言葉でなく、中国語を話していたことを指摘している。
辰韓の王権は三つの王族間で婚姻関係を互いに深めながら継承されて来た。その三つとは、秦氏系、天孫系、先住系である。秦氏系では朴氏(紀元前57年)が最初の王であり、続いて南解王(紀元後4年、8年には南解王の娘が天孫系の脱解王(昔氏)と結婚している)、儒理王(紀元後24年)、婆娑王(紀元後80年)、祗摩王(紀元後112年)、逸聖王(134年)、阿達羅王(154年)と続いている。昔氏から三代後に、天日矛(あめのひぼこ)(天日槍命(あめのひぼこのみこと))が生まれたと推測されている。日本で言えば、崇神天皇(258―273)の頃である。その後、新羅は先住系の血を濃くしながら八世紀、新羅崩壊まで王統が継続した。従って、天日矛(天日槍 命)と秦氏は同族と言うことになる。
弥生時代から古墳時代にかけて、朝鮮半島東南部(新羅・加羅系集団)から多数の人々が日本への渡来を繰り返している。或る時は小集団で、或る時は大集団で波状的、継続的に日本に渡来し日本民族の人口構成を変えるほどに渡来が行われたようだ。
このような渡来は長期的に継続し、五世紀・六世紀にも続いた。生産従事者のみならず、貴族・豪族が含まれており、しかも大和朝廷の招聘に応じる形で彼らは日本に渡来し、そして産業と文化の担い手となり、新しい日本の国作りを行ったのである。彼らは彼の地で既に君主・貴族であった人々と共に生産従事者、技術者(鉄器製造・河川灌漑)、陶工、大工、文筆家なども付添っての渡来だった。そして揖保川流域に居を構えた小宅秦公も彼の地で既に貴族であったと言うことであろう。
渡来者たちは瀬戸内海沿岸地域を中心に、即ち、筑紫、周防、播磨、山城などに定住した。西播磨のたつの市地域、即ち揖保川流域もそれらの一つであった。大和王権も彼らの持っている高い文化・技術を自分たちの立場を固める為に使ったのである。良く知られているのは「記紀」が述べる 弓月王 率いる秦集団の渡来である。弓月王 (ゆづきのきみ)の渡来は応神天皇14年であるが、小宅秦公の渡来はもう少し早く仲哀天皇の頃であろう。
さて、話を元に戻そう。趙高は民衆に重税を課し、過酷な刑罰を加えた。その結果、農民たちは反乱の烽火(のろし)を挙げた。旧諸帝国が直ちにこの動きに呼応し、秦帝国は瞬く間に崩壊した。胡亥は23歳の若さで自殺した。その後、胡亥の甥の子嬰(しえい)が秦の王(既に帝国は小国となっており、皇帝という言葉を使えなかった)になったが、46日の在位で、劉邦(前漢の王)の下に赴いて降服した。劉邦はこの時、子嬰の命は取らなかったが、後からやって来た項羽は子嬰を打ち首にし、略奪の限りを尽くし都に火を放った。都を焼く火は三ヶ月間、燃え続けたと言われる。
呂不韋の墓
近年、呂不韋(りょふい)の墓が偶然、発見された。彼は茶髪碧眼(ちゃばつへきがん)で背が高くギリシャ人かペルシャ人だったと想像されている。そして秦始皇帝も碧眼であったと言う説もある。この墓が何故現代まで朽ちずに残っていたのか、それは出土した棺が多量の炭(すみ)に 覆(おお)われていた為である。呂不韋と言う名は「レヴィ」の音訳で、ユダヤ系の名前だとする説まであるが真偽の程は定かでない。これまで秦始皇帝という一人の人物を中心に見てきたわけであるが、元々、秦国の故郷は巨丹(こたん) (現・新疆(しんきょう)ウイグル自治区ホータン、中国北西部)であり漢民族ではない。秦始皇帝の兵馬傭坑(へいばようこう)の兵士の顔立ちが示すように「秦」は国際性豊かな多民族国家だった。ホータンはシルクロード交易の地でもあり、早くから鉄や銅の冶金技術を持ち農具や武器に通じていた。また、絹や綿の紡績技術にも優れていたのである。秦の始皇帝を始祖と名乗って日本にやって来た人々の血筋の源は一部ホータンにあると想像してもあながち不自然とは言えない。
曹操、曹丕、曹植―三国志の詩人たち
曹操(そうそう)、曹丕(そうひ)、曹植(そうしょく)は秦始皇帝から数百年後の人である。曹操は晩年魏王となり、220年、66歳で病没した。長男の曹丕が後を継ぎ文帝(皇帝位)を名乗った。文帝も226年死去した。その後は文帝の長男 曹叡が継ぎ明帝と名乗った。倭王の卑弥呼が貢ぎ物を携えた使いを遣わした(「魏志倭人伝」)のは、この曹叡に対してであり翌年、237年のことであった。曹植は曹丕との後継争いに敗れて後は、悶々たる苦難の後半生を送り232年、41歳で没した。兄の曹丕よりも長生きをした。曹丕、曹植の母・玉児(曹操の妻)は 卞氏(べんし) で元歌妓だったが、曹操に側室として迎えられ後に正妻となった。玉児は華美を好まず倹約家で慎み深く、節度を重んじる立派な婦人であったようだ。230年に死去した。この親子三人(曹操 、曹丕 、曹植 )いずれもが文学的才能に恵まれ、「中国名詩選(上)」(岩波文庫)には三名の詩が紹介されている。その一部を次に紹介しよう。
曹操(そうそう)、「苦寒行(くかんこう)」と言う詩の一節である。袁紹 一族を討伐する為、厳冬の太行山脈(たいこうさんみゃく)を行軍した時の詩、時は西暦206年である。
薄暮無宿棲 薄暮(はくぼ)宿棲(しゅくせい) 無 し
行行日巳遠 行(い)き 行(い)きて 日(ひ)巳(すでに)に 遠(とお)く
人馬同時飢 人馬(じんば)時(とき)を 同(おな)じくして飢(う)う
(☆ 日が暮れてきたが、泊まるべき宿もない
山中を行軍してもう幾日になろうか
人も馬も共に飢えてしまった )
次は曹丕の詩の一節。「雑詩(ざつし)」とされるが、曹操(そうそう)は三男の曹植(そうしょく)の才能を高く評価し長男の作者(曹丕(そうひ))を疎んじた。この詩は父親 曹操が自分を排し曹植を太子に立てることを恐れて作ったものと言われる。自分を浮雲にたとえている。
西北有浮雲 西北(せいほく)に浮雲(ふうん)有(あ)り
亭亭如車蓋 亭亭(ていてい)として車蓋(しゃがい)の如(ごと)し
惜哉時不遇 惜(お)しい哉(かな)時(とき)に遇(あ)わず
適與飄風会 適適(たまたま)飄風(ひょうふう)と会(あ)う
(☆ 西北の空に浮雲が漂っている
ひときわ空高く車の蓋のようだ
惜しいことに、折悪しく
一陣のつむじ風にぶつかってしまった )
次は「吁嗟篇(くさへん)」と題される 曹植の詩の一節である。曹操死後、曹植を跡継ぎと言う声もあったが、結局長男の曹丕が後を継いだ。その後の曹植は兄に疎まれ、王の一族でありながら流浪の生涯を送った。他の兄弟たちとも離れ離れにされ、僻地をたらい回しにされたのである。曹丕は曹植が自分の地位を奪うのを恐れて、曹植の側近さえも殺害したと言われる。吁嗟(くさ)とは嘆声のこと。
流転無恒処 流転(るてん)して恒(つね)の処(ところ) 無 し
誰知吾苦艱 誰(だれ)か吾(わ)が 苦艱(くかん)を 知らん
願為中林草 願(ねが)わくば中林(ちゅうりん)の草(くさ)と為(な)り
秋隋野火燔 秋(あき) 野火(のび)に隋(したが)って 燔(や)かれん
(☆ 流転して一ヶ所に落ち着くことのない
この苦しみを誰が知ろうか
叶う事なら、林の下草になって
秋に焚く野火で焼かれてしまいたい )
曹植 は常に「汲々として歓びなく、遂に病を発して薨 ず」と史書は記す。時に41歳であった。 最後の封地が「陳 」( 河南省准陽県付近) で 、「 思」 と 謚(おくりなさ)されたので「 陳思王」 とも呼ばれる。
曹植 の後半の人生は薄幸であったが、その間に多くの詩を書いた。その詩は高く評価され、中国一の詩人との名声を得るまでに至った。新撰姓氏録は、川原若狭を「曹植 の末裔」と記している。川原若狭が天下の大将軍 曹操 ではなく、皇帝 曹丕でもなく、才能がありながらも薄幸の生涯を送った 曹植を祖先としていることに、むしろ新撰姓氏録の記述は信憑性があると言えないだろうか。
(続く)
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