「秦公」(はたのきみ)
「秦公(はたのきみ)」は姓(氏姓)であって、「少宅(をやけ)」は名である。従って、少宅秦公(をやけはたのきみ)という書き方は「名前+姓」であり、現代、私たちが英語でサインする時の順番である。だから本来の表記は「秦公少宅(はたのきみをやけ)」、又は「秦少宅(はたをやけ)」であるべきである。但し、古代では「名前+姓」で書くことはしばしばあったようで、「川勝秦公(かはかつはたのきみ)」、「伊呂倶秦公(いろぐはたのきみ)」の記述もある。
「秦公(はたのきみ)」の「公(きみ)」は朝廷豪族(朝廷に仕える豪族)・地方豪族(地方に在住する豪族)を区別せず、「すぐれた一族。勢力ある家柄。(諸橋轍次「大漢和辞典」)」の一族一般が名乗った。
「公(きみ)」は畿外の豪族に例外的に与えられた「姓(かばね)」である。察するに、少宅秦公は初期大和朝廷に従属はしておらず、しかし河内朝廷草創に協力した豪族であったのであろう。
日本書紀応神天皇十四年条に「この年、弓月君(ゆつきのきみ)が 百済(くだら)からやって来た。奏上して『私は私の国の、120県の人民を率いてやってきました。しかし 新羅人(しらぎじん)が邪魔をしているのでみな加羅国(からのくに)に留(とど)まっています。』と言った。そこで 葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を遣(つか)わして云々」とある。日本書紀応神天皇14年は西暦404年である。少宅秦公の渡来はこの50年程前の秦韓が新羅になった時であったであろう。
後に天武天皇の時代(684年)になって「八色(やくさ)の姓(かばね)」が制定された時、朝廷に仕える豪族(朝廷豪族)には 真人(まひと) ・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき) が与えられた。地方豪族は 公(きみ)・臣(おみ) ・ 連(むらじ) ・ 首(おびと)を継続して名乗ったようだ。少宅秦公の時代では朝廷豪族・地方豪族は未だ区別がされていない時の姓(かばね)である。
少宅秦公は揖保川流域の農業と灌漑に優れた技術を発揮したのであろう。農業の歴史は中国が遥かに古くから技術的に進歩いていたからである。揖保川の氾濫に対する護岸工事、農業用に田に水を引く灌漑工事も得意の領域であったに違いない。少宅秦公は「暴れ川」の異名を持つ揖保川を上手く制御して発展したと考えられる。
少宅秦公(をやけはたのきみ)の時代の豪族たち
少宅秦公の時代、五世紀頃には全国で凡そ121の豪族が存在していた。これは「宋書(そうじょ)」の中の倭王武(わおうぶ)の上奏文で「東は毛人(もうじん)を征すること55国、西は衆夷(しゅうい)を服すること66国」(青木和夫教授・講談社学術文庫「古代豪族」)から類推される数字である。そして、この頃の豪族は自主独立の気概を持っており、必ずしも大和朝廷の意向で動くようなものでなかった。まだまだ豪族たちの力は強かった。しかし、六世紀、七世紀と時間が経過する中で、大化の改新、律令制の発布などを通して大和朝廷は力を強大化させ各地の豪族たちを屈服させて行ったのである。
少宅秦公が生きていた時代は、地方豪族は未だ自主独立の気概が高く初期大和朝廷に対しても影響力を持っていたと推測される。孫の小宅智麻呂は時代の流れと共に、最早完全に大和朝廷に取り込まれ、里長(さとおさ)と言う役人になった。その後、小宅里は小宅郷となり、小宅智麻呂の子孫は中世には地域交易を仕切る小宅宿のオーナーになっていたようだ。そこで大きな経済力を蓄え「万歳長者」と呼ばれて、地方の有力者となったことを 播磨鑑(はりまかがみ)が伝えている。
小宅神社(おやけじんじゃ)
たつの市龍野町宮脇287に小宅神社がある。小宅神社 は後年付けられた名前であり、十四世紀後半作成された小宅庄三職方絵図(大徳寺文書)では「崇導社」、永徳二年(一三八二年)作成の弘山庄実検絵図写(円山文書)では「小宅宮」となっている。小宅智麻呂が創建した当時は「八幡宮(やはたぐう) 」と呼ばれていたようだ。「八(や)」は「多くの」と言う意味であり末広がりを表し、「幡(はた)」は「秦(はた)」である。八幡宮(やはたぐう)は「秦氏の神社」の意である。天慶二年(939年)十月、神社が再建された時に社記が発見された(揖保郡誌)。社記の内容は次の如くである(原文のまま)。
「小宅宮の儀(ぎ)は漢部(かんぶ)の里(り)小宅秦の君(きみ)神功皇后(くわうごう)三韓御征伐御還上(さんかんごせいばつごくわんじょう)の 御船萩原(おふねはぎはら)の里に碇泊(ていはく)せられし時誉田天皇(ほむたのすめらみこと)の庶兄鹿耶坂忍熊二王の変あらんことを聞き 奏上(そうじょう)しければ尊大悦し給(たま)ひて海(うみ)を航せんと欲(ほっ)せられし時(とき)韓人(かんじん)を預(あず)け及び一個(こ)の石(いし)を賜(たまわ)られしが其形(そのかたち)楕円体(だえんたい)の如き自然石淡黒色(しぜんせきたんこくしょく)にして 黒(こく)斑あり実(じつ)に美麗殊(びれいこと)に天皇(てんのう)の賜(たま)ものなるにより尊(たっと)みたり 其後(そのご)神功皇后(くわうごう)崩御せられ給(たま)ふ時彼の賜(たま)ものを神爾(しんじ)として小宅(をやけ)の宮に於(おい)て崇敬(すうけい)せられたるを其後(そのご)川原(かわはら)の若狭(わかさ)の子孫智麻呂里長(ちまろりちょう)に任(まか)せられたり此「これ」に因(よ)って改(あらた)めて小宅の里(さと)となす庚寅年実(じつ)に持統天皇(じとうてんのう)四年也然(ねんなりしか)るに未だ此里(このさと)に神社之(こ)れ無きにより竟(つひ)に清潔(せいけつ)の地(ち)を選(えら)びて神殿(でん)を造営(ぞうえい)するに至る同年九月上旬全く成功(せいこう)せるにより彼(か)の小宅の家(いえ)に祭られし神爾(しんじ)と応神天皇(おうじんてんのう)の二神を勧請(くわんせい)し産土神(うぶずなかみ)と 崇敬(すうけい)して祭典(さいてん)を九月十五日と定め且(かつ)小宅家(け)の一族を以(もっ)て 社人(しゃじん)と為(な)し記て而(しか)して社殿(しゃでん)に納(おさ)むべきなり
天(てん)慶二年十月再建なる時由緒発見謹(つつし)みて写置(しゃち) 、八 木 英國 」
以上の文章は「揖保郡誌」(昭和六年発行、龍野新聞社)に載っているのだが、記述にある様に天慶二年(941年)、再建時に「由緒(ゆいしょ)」が発見され、それを八木(き)英國なる人が筆写した内容である。その後、十五世紀には赤松氏の乱で神社は焼失し、再び再建され現在に至っている。
ここで注目したいのは 神功皇后が少宅秦公に「韓人を預けた」と言う行(くだり)である。これは一体どういうことなのであろうか。新羅征伐の帰路であるから「韓人」とは新羅の人質、或いは捕虜であったと推察できる。感謝の意味で捕虜を与えた、即ち「韓人を預けた」のだろうか。
この韓人(元秦韓人)は彼の地で既に少宅秦公を知っていたからではなかろうか。或いは、その韓人が身分の高い人物であれば 少宅秦公自身が彼らを知っていた可能性もある。或いはその韓人の家族または先祖と知己であった。その様に考えれば「韓人を預ける」という行為は自然である。神功皇后と少宅秦公の接触は少宅秦公渡来後、間もない頃の出来事であったに違いない。
三世紀から五世紀の倭と新羅(辰韓)
古代において倭と新羅はいったいどの様な付き合い方をしていたのであろうか。それは1500年も前のことで素手では想像もできない世界である。幸いなことに中国には漢字が発明されていた。中国の歴史書が当時の様子を伝えている。
当時は世間に起きた事件を事実に沿ってきちんと書き残す風潮は希薄だったようだ。それよりも時の支配者が自己の立場を有利にする為の主張が盛り込み、真実とか事実に厳しくは拘らなかったようである。さらに、神は存在し奇跡は起こり得るものだと信じていた節がある。しかもそれら記録も長い歴史の中で地震・火事・災害・戦争などで大半が消失している。
現在、残っている書物と雖(いえど)も後世、即ち実際の事件から300年・500年など後の世になって必要に迫られ、国の歴史書として当時の為政者に都合の良い様に意図的に作成されたものであり、残存漢字記録や伝承をつなぎ合わせて物語に拵(こしらえ)え挙げたものである。
日本最古の歴史書は八世紀に編著され、朝鮮半島では十二世紀、中国で三世紀頃に書かれている。そのいずれもが漢字で記されている。この中で古代を論じる場合、中国書が事実と一番近いところにいると言えそうである。
新羅から見た倭
古代において、日本と新羅の関係は如何であったのであろうか。八世紀に朝鮮半島を統一した新羅の立場で編著された歴史書が『三国史記「新羅本紀」』、(十二世紀編著)である。新羅の国名が登場したのは四世紀後半である。それまでは辰韓(秦韓)であった。
次に引用する最初の文章は編著時から900年も前、西暦208年の事を取り上げているのだが、元ネタは既に失われている『旧三国史記』に依っていると言われている。
次の一連の記事は「倭と新羅(辰韓)の関係」を新羅サイドから見たものである。
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208年4月 倭人が国境を侵犯した。伊伐飡(いばつさん)利音(王子)をもって防戦させた。
232年4月 倭人が突然侵入し、金城(新羅の王城)を包囲した。王、自ら戦いに赴き敵を潰走させた。殺したり捕えた者は1000余名であった。
233年5月 倭兵が東辺に侵入した。
233年7月 伊飡干老(いさんうろう)(大将軍)が倭人と 沙道(さどう)で戦った。風を利用して火を放ち、船を焼いた。賊は水に飛び込んで悉く死んだ。
249年4月 倭人が 叙弗邯(じょふつかん) になっていた 干 老(うろう) を殺した。
287年4月 倭人が 一礼部(いりれぶ) (新羅の地域)に火を放って焼き、住民1000人を捕虜にした。
289年5月 倭人来襲と聞いて舟と楫を整え、鎧と武器を修理した。
292年6月 倭兵が沙道(さどう)城(慶尚南道咸安郡(けいしょうなんどうはまんぐん) にあった城か、現在の釜山のやや内陸部))を攻め落した。
294年 夏条 倭兵が来て長峯城を攻めた。勝てなかった。
295年 春条 王が臣下に向かって『倭人はしばしばわが城や村を侵犯している。百姓は安心して暮らすことができない。自分は百済と共に事を企てようと思う。百済と同時に海を渡って進攻し、その国(倭国)を攻撃するのはどうだろうか』と語った。叙弗邯の 弘権(こうけん)が答えて、『我々は水戦に慣れておりません。危険を冒して遠征すれば恐らく思わぬ危難に遇うでしょう。まして百済は欺くことが多く、いつもわが国を併合しようと野心を抱いております。そこで多分、百済と共に同じ企てをすることは困難でありましょう』と言った。王は、『よかろう、分かった』と言った。
300年正月 倭国と友好関係を結んだ。
312年3月 倭国王が王子の為に婚姻を要請してきた。阿飡急利(あさんきゅうり)の女を送った。(註・阿飡とは新羅の官位の一つ)。
344年2月 倭国王が使者を遣わして婚姻を要請してきた。女は既に嫁に行ってしまったことを理由に断わった。
345年2月 倭王が国書を送ってきて国交を断った。
346年 倭兵が突然 風島(ふうとう)にやって来て辺境の民家を略奪した。更に金城を包囲し激しい戦闘を展開した。王は兵を出して合戦させようとした。伊伐飡康世(いばつさんこうせい)が言うには『賊は遠方からやって来ました。その勢いは鋭く対抗できません。勢いを削ぐのが一番でしょう。敵が疲れるのを待つべきです』。王はこの意見を取り入れ、城門を閉じて兵を出さなかった。
賊は食料が尽きて退却を始めた。王は康世(こうせい)に命じて騎兵を出撃させ敵を敗走させた。
364年4月 倭兵が大挙してやって来た。王がこの報告を聞いて、対抗することができないと考えて草で人形を数1000個作り服を着せ兵器を持たせ吐含山(とがんさん)(吐含山 は「霧と雲を含んで吐く」と言われ、韓国慶州(新羅)にある。西麓の丘陵に仏国寺がある。)の麓に並べておいた。そして、勇士1000人を東野原に伏せておいた。倭人が自陣の数の多さを信じて直進すると、隠れていた兵士が不意打ちの攻撃をしかけた。倭軍は大敗して逃走した。追撃して倭兵をほとんど殺した。
註。この364年4月の戦いが 神功皇后の新羅征伐ではないかとする説が多い。少宅秦公はこの時点で既に日本に渡来している。
393年5月 倭人がやって来て金城を包囲した。五日経っても包囲を解かなかった。兵は全て城から出て戦いたいと願った。王は『敵は今、舟を捨てて深く入り込み死地にいる。その鋭い勢いには対抗できない』と言った。そこで城門を閉ざした。賊は戦果を挙げることなく退却した。王は先ず、勇敢な騎兵200を遣わせて帰路を断った。そして歩兵1000人を派遣して独山まで追撃した。挟み撃ちで大いに敵を破った。殺したり、捕虜とした者は極めて多かった。
402年3月 倭国と友好関係を結んだ。時の第十八代新羅王 実聖尼(じっせいに)師今干(しきんかん)は奈勿王(なもつおう)の子、未斯欣(みきしん)を人質として倭国に差し出した。
註・第十七代新羅王 奈勿尼師今(なもつにしきん)(402年、2月薨去)には三人の子があった。長子は訥祇(とつぎ)(後の訥祇麻立干(とつぎまりつかん)第十九代新羅王)、次男は卜好(ぼっこう)(別名、宝海)、三男は未斯欣(みしきん)(別名、美海(みかい) 、未吐喜(みとき) 、未叱喜(みしき) 、微叱許智(みしこち) )である。実聖尼師今(じっせいにしきん)は先代の 奈勿尼師今によって高句麗に人質に出されたことを恨みに思っていたので仕返しをしたと言われている。奈勿尼師今が新羅王であった時に、高句麗に人質に出されたのが 実聖尼師今である。実聖尼師今が帰国して、奈勿尼師今を継ぐ第十八代新羅王になれたのは高句麗のバックアップがあったからというのが実情のようだ。即ち、実聖尼師今の新羅は高句麗の傀儡政権であり、新羅に対する高句麗の影響力が強くなったことを物語る。倭国に渡来した集団はこの政治的変化を嫌った人々であろう。
未斯欣(みしきん)(別名、微叱許智(みしこち) )を人質として倭国に連れ帰ったことを日本書紀は 神功皇后五年条で記述している。従って、両国の歴史認識は 未斯欣によって繋がっている。
神功皇后五年条は「新羅出兵」として次の様に書いている。また、『三国史記「新羅本紀」』は402年としているので、神功皇后の新羅出兵は三国史記「新羅本紀」に合わせれば西暦402年だったと言うことになる。少宅秦公の渡来は従って四世紀後半であろう。
神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅出兵
今度は日本側の歴史書「日本書記」から倭と新羅の関係、特に 未斯欣の人質の件はどの様に扱われているか見てみよう。
「冬十月三日、(神功皇后)は鰐浦(対馬市)から出発された。その時、風の神は風を起こし、波の神は波をあげて、海中の大魚はすべて浮かんで船を助けた。風は順風に吹き帆船は波に送られた。舵(かじ)や楫(かい)を使わないで新羅に着いた。その時、船をのせた波が国の中にまで及んだ。これは 天神地祇(てんじんちぎ)(すべての神々)がお助けになっているらしい。新羅の王は戦慄して、なすすべを知らなかった。多くの人を集めて『新羅建国以来、かつて海水が国の中まで上がってきたことは聞かない。天運が尽きて国が海となるのかも知れない』と言った。その言葉も終わらない中に、軍船海に満ち、旗は日に輝き、鼓笛の音は山河に鳴り響いた。新羅の王は遥かに眺めて、想いの外の強兵がわが国を滅ぼそうとしていると恐れ迷った。やっと気がついて次の様に言った、『東に神の国があり、日本と言うそうだ。聖王があり天皇と言う。きっとその国の神兵だろう。とても兵を挙げて戦うことは出来ない』。白旗をあげて降伏し、白い綬(くみ)を首にかけて自ら捕われた。地図や戸籍を封印して差し出した・・・。
新羅の王を殺そうと言う者もいたが、皇后が言われるのに、『神の教えによって、金銀の国を授かろうとしているのである。降伏を申し出ている者を殺してはならぬ』と。その縄を解いて馬飼いとされた。・・・新羅王の波沙寝錦(はさむきん)は 微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅・絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた。・・・皇后は新羅から還られた。十二月十四日、後の応神天皇を筑紫で産まれた。・・・」。
寝錦(むきん)は尼師今(にしきん)と同義。王の称号を寝錦又は尼師今と両様の呼び名で呼んだのは奈勿尼師今(なもつにしきん)と 実聖尼師今(じっせいにしきん)の二代だけである。「波沙寝錦(はさむきん)」と言う表現をここで用いていることは、皇后の新羅出兵はこの二王の時期であったことを示している。広開土王陵碑文には「むかし新羅(寝(み))錦(きん)」とある。
「日本書紀」は、「一説によると」として、戦いの様子について追加記述がある。
「新羅王を虜にして海辺に行き、膝の骨を抜いて、石の上に腹ばわせた。その後、斬って砂の中に埋めた。その後、新羅における日本の使者として一人の男を残して帰還された。
その後、新羅王の妻が、夫の屍を埋めた地を知らないので、男を誘惑するつもりで言った。『お前が王の屍を埋めたところを知らせたら厚く報いてやろう。また、自分はお前の妻となろう』と。男は嘘を信用して屍を埋めたところを告げた。王の妻と国人は謀って男を殺した。さらに王の屍を取り出して他所に葬った。その時、男の屍を取って王の墓の底に埋め、王の棺の下にして、『尊いものと卑しいものとの順番はこの様なのだ』と言った。天皇はこれを聞いてまた怒られ、大兵を送って新羅を亡ぼそうとされた。軍船は海に満ちて新羅に至った。この時、新羅の国人は大いに怖れ、皆で謀って王の妻を殺して罪を謝した。
この記述によると、神功皇后が未斯欣(みしきん)(微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき))を倭の人質にしたのは、戦が終わって倭国に凱旋する時である。殺害された新羅王は 奈勿尼師今(なもつにしきん)の筈だ。『三国史記「新羅本紀」』は、「47年(402年)春二月、王(奈勿尼師今(なもつにしきん))が 薨去(こうきょ)した」とだけ書いている。死因については触れていない。未斯欣(みしきん)を人質に出したのは 実聖尼師今(じっせいにしきん)第十八代新羅王(波沙寝錦(はさむきん))である。
波沙寝錦は語感から最も近い存在としては、婆娑尼師今(ばさにしきん)第五代新羅王(在位80―112年)がいるが 未斯欣(みしきん)の時代と合わない。また、婆娑尼師今(ばさにしきん)の在位中には倭との大きな戦争は記録されていないので、この場合当たらないと見るべきであろう。
人質は連行された後、倭国の何処に住んだのか。最も可能性の高いのは倭国の王宮の近く、この場合は神功皇后の目に付き易い所に居宅が与えられたのであろう。
ただ、播磨国の鎌倉時代の地誌・峰相記(みねあいき)には峰相山鶏足寺(みねあいさんけいそくじ)(姫路市打越)の起源を次の様に伝えている。
「当山(峰相山鶏足寺(みねあいさんけいそくじ))の起源は遥か遠い昔に遡(さかのぼ)ります。神功皇后が三韓征伐に赴かれた時、新羅国(しらぎのくに)の王子を人質としてわが国に連れ帰りました。その時、王子は申しました。
『海を渡る間、風波の難なく無事に倭国に到着できれば、是非ひとつ伽藍を建立してください』と。皇后はこの時、未だ仏教についてご存知なく、明確なお答えがありませんでした。
皇后は筑紫にて皇子(応神天皇)を出産された後、大和に還られる途中、尚、西方からの熊襲の襲撃を警戒され、防御の為に当国(播磨国)に副将軍 男貴尊(おきのおみこと)を留め置かれましたが、この時、人質の皇子は副将軍に預けられたのです。
皇子は当山(峯相山)に 攀(よ)じ登って草庵(そうあん)を編(あ)み、一心に千手陀羅尼(せんじゅだらに)(千手経(せんじゅきょう))を唱えました。その後、数百年が経ちました。
敏達天皇(びだつてんのう)の治世十年(581年)になって、一堂が建立され王子の入滅(にゅうめつ)が弔われました。王子が唱えていた阿弥陀仏による 衆生救済(しゅじょうきゅうさい)の誓願は天皇の行法(ぎょうほう)(仏道修行の方法)となり、また 国衙(こくが)の祈祷ともなって現在に至るまで続いています。
その後、敏達天皇治世18年(589年)の中秋(ちゅうしゅう)18日(旧暦8月18日)に、空中に鈴の鳴る音が聞こえ、同23日には二丈五尺(約七・五m)の幡(はた)(旗)と共に鈴が寺の庭に降って来ました。 幡(はた)は金糸で誠に美しい刺繍が施されていて、鈴は妙なる美しい音色を発しました。鈴には温州(おんしゅう)金光明会所造(温州:中国浙江(せっこう)省南東部の地名)と銘が打たれていいました。
その後、当山において仏法が大層繁盛して多数の僧侶が修行するようになりました。
神護景雲(じんごけいうん)(767〜770年)の頃、金堂、講堂、法華堂、常行堂、五大尊堂、鐘楼、一切経蔵、 勧請神(かんじょうかみ)、九つの社壇(祭壇)、五重塔、三重塔、宝蔵一宇(一棟)があり、僧房も300余ありました。 大市(おおいち)に観音寺、根本寺、寺門塔谷、馬山瓦屋などの別院がありました。縦12m・横16mの大広間のある建物の前には3.3mごとに大石が置かれていました。瓦塔(がとう)(須恵器の塔・礼拝の対象)が所々に建っていました。瓦塔は今も残っております。」
峰相山鶏足寺は天正六年(1578年)8月10日、羽柴秀吉との戦乱の中で完全に焼失してしまった。その後復興されることなく廃寺となり、現在は石階段、井戸、石垣、墓地、経塚など遺構のみが残っている。
この人質がその後、新羅に帰ったとの伝承は見当たらないので、未斯欣(みきしん)ではなかったのかも知れない。ただ、峰相山鶏足寺は新羅から人質で来た王子が作った寺院であると言える。
『三国史記「新羅本紀」』続き
更に、『三国史記「新羅本紀』の記述を続けて見てみよう。
405年4月、倭兵が来て明活城(慶州市普門里)を攻めたが、勝つことなく帰った。
王は騎兵を率いて独山で待ち構え、之を破った。殺したり、捕虜とした者は300名だった。
407年3月 6月 倭人が東辺を侵犯した。更に6月になって南辺を犯し100人を掠奪した。
408年2月 王は倭人が 対馬(つしま)島(長崎県上県郡上県町)に軍営を置いて武器や資材・食料を蓄えわが国を攻撃しようと企んでいると聞き、未だ倭兵が出兵しない内にえり抜きの兵を用いて兵站を撃破しようとした。叙弗邯の未斯品(みしひん)は『臣が聞くところによりますと、兵は凶器で、戦いは危事です。ましてや大海を渡り、他国を討伐し、もし万が一、利を失うようなことがあれば悔やんでも悔やみきれないないでしょう。今は高く険しい所を基地として立てこもり、関を設けるにこしたことはありません。敵が来襲すればこれを防御し侵略できないようにしましょう。その上で状況が良くなれば出撃して敵を捕えるのです。これこそ最上の策かと存じます』と。王は之に従った。
415年8月 倭人と風島で戦い、勝利した。
418年 秋 訥祇(とつぎ)王の弟 未斯欣が倭国から逃げ還った。
註・未斯欣(みしきん)の兄、訥祇麻立干(とつぎまりつかん)がこの前年(417年)に第19代新羅王になっている。その前に、新羅王実聖は高句麗に依頼して、奈勿尼師今(なこつにしきん)の長子 訥祇(とつぎ)の殺害を試みた。ところが、高句麗の兵士は 訥祇の優れていることを知り、逆に実聖王を裏切り訥祇に寝返ったらしい。
それで 訥祇は逆に実聖王を殺害して第十九代新羅王になったと言われる。そして、訥祇は王になった翌年、弟の未斯欣を倭国から取り返す算段をするのである。この間の経緯は幸いにも、日韓の歴史書にそれぞれ詳しく記されている。
「朴提上(ぼくていじょう)」
先ず、新羅側の「三国史記 列伝五」は「朴提上(ぼくていじょう)」の条で 未斯欣(みしきん)の奪還を次の様に述べている。
「朴提上は出仕して或る州(慶南梁山郡)の 干(かん)(長官)になっていた。これより先、実聖王元年(402年)壬寅に倭国と講和したが、倭王は 奈勿王(なこつおう)の子 未斯欣(みしきん)を質にすることを申し出た。実聖王はかって 奈勿王(なこつおう)が自分を高句麗に人質として送ったことを恨んでいたので、その恨みを晴らそうとしてその申し出を受け入れた。また11年(412年)、壬子には、高句麗もまた未斯欣の兄卜好(ぼくこう)を質として得たいと求めてきた。実聖王はまた卜好を人質に遣わした。
訥祇王(とつぎおう)が即位すると、弁舌の達人を求めて人質である彼ら(卜好と未斯欣)を迎えに行かせようと考えていたところ、水酒村干(村長)の 伐宝抹(ばつほうまつ)と一利村干の 仇里廼(きゅうりだい)と利伊村干の波老の三人は賢智があると聞いた。それで彼らを召して、
『わが二人の弟は倭と高句麗の二国に人質として行き何年も帰っていない。兄弟の情として弟たちへの憐れみを自制することができず生還させたいと願っている。どうすれば良いだろうか』と問うた。
三人は口を揃えて、次の様にと答えた。
『臣らは軟良州干の提上は剛勇で、しかも策謀ある方だと聞いています。彼なら殿下の憂いを解くことができるでしょう』
そこで王は提上を召して呼び寄せ、三臣の言ったことを告げ、弟たちを取り戻しに行って欲しいと頼んだ。提上は、
『臣は愚かで不肖でありますが、ご命令を謹んで承らないではおれません』と答えた。この後、提上は高句麗に行って率直に高句麗王に 訥祇王(とつぎおう)の気持ちを伝えた。すると高句麗王は隣国との関係は誠実と信頼が大事だと延べて快く人質を帰すことに応じた。
提上は人質になっていた次男の弟を 訥祇王の前に連れ戻した。訥祇王は大層喜んで、『私は二人の弟を左右の腕のように思ってきた。今、ただ一つの腕を得たがもう一つの倭国に人質になっている腕(弟)も何とかならないか』と言った。提上は答えて、
『高句麗は大国で王は賢君であります。それ故、臣の一言でもってその意を汲んで下さいましたが、倭人のごときは弁舌で 諭(さと)すことはできません。正に詐謀(さぼう)で王子を帰国させる以外ありません。臣が彼の地に行ったなら、臣が国に叛(そむ)いたということを彼らに聞かせてやってくださいませ』と言って妻子にも会わず、栗浦(りっぽ)(慶南蔚山市)に着き舟を浮かべて倭に向かった。
倭国に入った提上は叛逆して来た者のように振舞ったが倭王は疑った。以前から倭に入っていた百済人が、新羅と高句麗は謀って王国(倭国)を侵略しようとしている、と倭王に讒言(ざんげん)していた。そこで倭はついに兵を派遣して新羅の境域の外を偵察して守らせていたところ、たまたま高句麗が侵入して来て倭の偵察兵を捕えて殺してしまった。そこで倭王は百済人の言葉が本当であることを知った。また新羅王が 未斯欣(みしきん)と提上の家人を捕えたと聞き、提上の叛逆は真実であると思った。
そこで倭王は軍隊を出して新羅を襲撃すると共に未斯欣と提上を将師に任命し、かつ彼らに案内させて海中の小島に行かせた。倭の将師たちは新羅を滅ぼした後、提上と 未斯欣の妻子を連れて来ることを密議していた。この密議を知った提上は 未斯欣と舟に乗って遊び、魚や鴨をとる振りをしたので、倭人はこの様子を見て提上たちが無心で喜んでいるのだと思った。この時、提上は未斯欣に密かに本国へ帰るように勧めた。未斯欣は、『私は提上将軍を父のごとく仕えておりますのに、どうして一人で帰れましょうか』と言った。提上は、『もし二人が一緒に出発すればこの策略が成功しないのではないかと私は恐れるのです』と言うと、未斯欣は提上の首を抱き泣いて立ち去って行った。
提上は一人室内で眠り朝遅く起きた。未斯欣をできるだけ遠くへ行かせようとしたのである。何人かが将軍は何故こんなに起きるのが遅いのか、と尋ねると提上は、『昨日舟に乗って疲労困憊し早く起きることができなかった』と答えた。提上が部屋から出ると倭人たちは未斯欣が逃げたことを知った。ついに提上を縛り上げ、舟で後を追ったが、ちょうど 靄(もや)がかかって暗く見通しがきかなかった。帰って提上を王の所に連れて行き、提上を木島(未詳)に流した。しばらくして臣下に薪の火で提上の体を焼け爛れさせ、その後でこれを斬った。
訥祇王(とつぎおう) はこの情況を聞いて 哀哭(あいこく)し、提上に大阿喰の官位を追贈した。」と。
「朴提上(ぼくていじょう)」―「日本書紀」の記録
一方、日本側の「日本書紀」はこの件を 神功皇后の条で次の様に述べている。
「五年春三月七日、新羅王が 汗礼斯伐(うれしばつ) ・毛麻利叱智(もまりしち)(朴提上(ぼくていじょう)、別名毛末(もま)とも言われていた)・冨羅母智(ほらもち)らを遣わして朝貢した。そして(新羅)王は先の人質、微叱許智伐旱(みしこちばつかん)(未斯欣)を取り返そうという気があった。それで 許智伐旱(こちばつかん)に嘘を言わせるようにした。『使者の 汗礼斯伐(うれしばつ)・毛麻利叱智(もまりしち)らが私に告げて、わが王は私が長らく帰らないので、妻子を没収して官奴としてしまったと言います。どうか本国に還って嘘かまことか調べさせて欲しいと思います』と言わせた。神功皇后はお許しになった。葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を付添わせてお遣わしになった。対馬に着いて鰐浦に泊まった。その時、新羅の使、毛麻利叱智(もまりしち)らはひそかに船の水手(かこ)を手配し微叱旱岐(みしかんき)を乗せて新羅へ逃れさせた。草で人形をつくり、微叱許智(みしこち)の床に置きいかにも病気になったように偽り 襲津彦(そつひこ)に告げて、『微叱許智(みしこち)は病気になり死にかかっています』と言った。襲津彦(そつひこ)は人を遣わして病者を見させた。そこでだまされたことが分かり、新羅の使い三人を捕えて、檻の中に入れ火をつけて焼き殺した。襲津彦(そつひこ)は新羅に行き 多大浦(たたらのうら)(釜山の南、多大浦(たでぽ))に 陣(じん)し、草羅城(さわらのさし)(慶尚南道梁山(やんさん))を攻め陥して還った。この時の捕虜たちは、今の桑原・佐薇(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)など四つの村の漢人らの先祖である。」
佐薇(さび)や忍海(おしぬみ)の住んでいたと思われる奈良県御所市の遺跡から最近、鉄鋳造の痕跡が発見されている。即ち彼らは鉄器製造技術集団であった可能性が高い。
「朴提上(ぼくていじょう)」―新羅資料「三国遺事」
更に、新羅の資料「三国遺事」もこの件については記録を残している。
「第十七代新羅王の那密王(奈勿王(なもつおう))の即位36年(390年)庚寅に倭王の使者がやって来て『どうか大王は一人の王子を(倭へ)遣わして、誠意をわが君主にお示しください』と言った。
そこで王は第三子の美海(未斯欣(みしきん))を倭に行かせた。美海はまだ十歳だったので言葉や動作が十分でなかった。その為、内臣の 朴婆覧(ぼくさらん)を副使として遣わした。
倭王は美海を引き留めて30年も帰国させなかった。
10年(425年)乙丑になって、訥祇王は群臣および国中の豪族を召集して親しく御宴を賜わった。酒を勧めること三度にして、種々の音楽が奏でられた。王は涙を流して群臣に語って、『昔、私の亡き父君は民事に誠意を尽くし、その為にこそ愛する子を東方の倭に行かせたのだが、会うこともできないまま亡くなられた』と言った。
訥祇王は既に(高句麗から帰ってきた)宝海を見て、ますます美海のことを思うようになった。一方では喜び、他方では悲しみ涙を流して侍臣に、『一つの身体に一つの腕しかなく、一つの顔に一つの眼しかないように、一人を得たといっても、しかしながらもう一人を失っている。どうして心を痛めないことがあろうか』と言った。その時、提上はこの言葉を聞き、再拝して朝廷を辞去し馬に乗って、家には帰らないで行き、直ちに栗浦の浜に至った。妻はこれを聞き馬を走らせ追いかけて栗浦に至った。夫を見ると既に舟に乗っていた。妻は心を込めて夫を呼んだ。提上はただ手を振るだけで舟を止めずに出発して倭国に至った。
提上は偽って、『鶏林(新羅)の王は罪もないのに私の父兄を殺したので、逃げてきてここに至ったのです』と言った。倭王はこれを信じて住居を賜り提上を安住させた。
ところで、提上はいつも美海を連れて浜辺で遊び魚や鳥を追い捕えていた。その獲物をいつも倭王に献上した。王は大変これを喜んで疑わなかった。
たまたま明け方の霧が暗く立ち込めていた。提上は『お行きなさいませ』と言った。美海は『それならば一緒に行こう』と言った。提上は、『臣がもし一緒に行けば恐らく倭人が気がついて追いかけて来るでしょう。願わくは『臣がここに留まって、その追跡を食い止めます』と言った。美海は、『私とお前とは父兄のようなものだ。どうしてお前を捨て、ひとりで帰ることができようか』と言った。
時あたかも、鶏林(新羅)の人である 康仇麗(こうきゅうれい)が倭国にいた。その人を従わせて美海を本国へ送り帰した。
提上は美海の部屋に入った。翌朝になって倭王の近侍が入ってきて美海の様子を見ようとした。提上は出てきて近侍の者を押しとどめ、『昨日、狩猟で走りまわられお疲れがひどくてまだ起床されません』と言った。日が暮れると近侍はこれを怪しんで重ねて問いただした。提上は答えて、『美海がお行きになってから既にだいぶ経った。と言った。近侍は走って行って王に報告した。王は騎兵をもって美海を追跡させた。だが、追いつくことはできなかった。そこで提上を捕えて尋問し、『お前はどうしてひそかにお前の国の王子を逃走させたのだ』と言った。提上は答えて、『臣は鶏林(新羅)の臣であります。倭国の臣ではございません。今、私の君主のお志を遂げ申しあげたいと望んでいるだけです。どうして、とりわけて、あなたに申し上げる必要がありましょうか』と言った。
倭王は怒って、『今、お前は既に私の臣なのだ。それなのに鶏林(新羅)の臣と言うならば、かならず五刑に処す』と言った。(倭王はまた、)
『もし倭国の臣であると言えば、必ず高い禄を与える』と言った。(提上は)答えて、
『むしろ鶏林(新羅)の犬や豚になっても、倭国の臣とはなりません』と言った。更に『むしろ鶏林(新羅)の杖刑は受けても、倭国の爵禄は受けません』と続けた。
倭国王は怒って肉を切り割く者に命じて、提上の足のうらの皮を剥がせ、ヒメヨシを刈りとってその上を走らせた。(今、ヒメヨシの先に血痕があるのは俗に、提上の血と言われている)。さらに倭王は尋問して、
『お前はどこの国の臣なのか』と言った。(提上は)、
『鶏林(新羅)の臣であります』と答えた。また、熱した鉄板の上に立たせて、どこの国の臣なのかを問いただした。(提上は)、
『鶏林(新羅)の臣であります』と答えた。倭王は、(提上を)屈服させることができないと分かって、木島の中で焼き殺した。
(続く)
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