『播磨風土記から紐解く小宅のルーツ』(その4)

目次

龍野出身の文人

龍野には文人が多い。龍野の文学的DNAの源は 曹植にありと言えば言い過ぎになろうか。龍野から出た文人の筆頭は哲学者三木清である。曹植の性格について、陳寿(「三国志」の著者)は「 姓簡易にして威儀を治めず輿馬服飾、華麗を尚ばず( 大まかで細かいことに拘らず堅苦しいことが嫌いだった。 乗り物や服装も華美なものは嫌った )」 と記し、 三木清の性格と不思議に酷似している。
国民宿舎「赤とんぼ荘」は小高い丘(古墳跡でもある)に建っているが、そこから 野見宿禰(のみのすくね)茶屋 に向かって下りる小道に木製の案内板があり、そこには「三木清の哲学の小径」と書いてある。小道を下ると、途中に三木清のレリーフがあって、素朴な表情の似顔絵と共に、

「しんじつの秋の日てればせんねんに心をこめて歩まざらめや」

と言う歌碑を見ることができる。(冒頭の写真)
その横には、彼の著作『人生論ノート』の一節がある。

三木清の生家は、この山を下った所、龍野高等学校の南西に位置する 小神(おがみ)にあった。
日山には、「嗚呼玉杯に花うけて(第一高等学校寮歌)」の作詞者矢野勘治の生家もある。一節だけ紹介しておこう。

嗚呼玉杯に花うけて
緑酒に月の影やどし
治安の夢に耽りたる
栄華の巷低く見て
向丘にそそり立つ
五寮の健児意気高し

その他この地域出身の著名な詩人は三木露風である。「赤とんぼ」の作詞者として有名である。

   赤とんぼ

ゆうやけこやけの赤とんぼ 
おわれてみたのはいつの日か
ねえやは十五でよめにいき
お里のたよりもたえはてた

西宮山古墳と秦王国

西宮山古墳は昭和30年、兵庫県立龍野高等学校(たつの市龍野町日山)グラウンド造成工事中に偶然、発見されたが同工事はそのまま続行され古墳は消滅した。現在、西宮山古墳跡は龍野高等学校の背後の丘に造成された同校のグラウンドの北部分がそれにあたる。標識などは立っていない。
石室を構成していた石は同校の庭石となっている。築造時期は六世紀中葉で横穴式石室を持つ前方後円墳である。この場所には弥生前期から続く墳墓の形跡はなく、六世紀中葉に突如この場所に出現した前方後円墳である。
出土品が華麗なこと、渡来系の色彩が強いことが特徴である。渡来系の強力な王がこの地に突如出現し、君臨したことを物語る。
西宮山古墳発掘時の記録を要約するとこの古墳の特徴は以下の如くである。
1)   石室は6.6m、割石を持ち送りにして、かなり傾斜した壁を作っている。この方式の源流は高句麗にあると言われる。玄室(棺を納める室)の床は正方形に近い。以後の横穴式石室が縦長の長方形の玄室を持ち、壁、特に奥壁に大石をす(辰韓)の地で発見される古墳に極めて近い。
2)   全長は34.6m、前方部高さ3.85m、後円部高さ4.5m、くびれ部の高さ2.78m、前方部分の長さ13m、後円部分の直径21.5mである。
3)   玄室内に遺体9体有り。追葬が為されている。
玄室内に宋銭三枚(皇宋通宝―北宋四代仁宗が宝元二年(1039年)に始鋳)・冶平元宝・煕寧元宝)と明銭1枚(永楽通宝、神仏をまつれば諸願成就す)があった。これら中国銭は11世紀―17世紀の間、日本に輸入されそのまま貨幣として
4)   流通していた。追葬時に入れられたものか。即ち、十一世紀以後まで追葬があったのであろう。
5)   前方後円墳で横穴式石室は六世紀では珍しい。
6)  葺石を持ち墳丘上に埴輪群があった(形象埴輪と家型埴輪)。
7) 金製耳飾りは形式・製作技法から新羅で作成されたもの。五世紀の新羅で盛んだった金製耳飾りである。(短冊形の連結金具や,小環連接半球体を二つあわせて帯をめぐらした中間飾が使われている)。
8)  台付き装飾壷はその頃の日常生活が表現され六世紀に流行っていた。
9)  当古墳は六世紀中葉に築造され、その後追葬されている。
10)その他の出土品は須恵器の壺や椀、高坏。馬具・鉄剣・矢じり、アクセサリーとしてのこはく玉・ガラス玉などがあった。

さてこの古墳の被葬者は誰なのであろうか。同古墳の東北側には 日下部里 があった。東南側には少宅里(漢部里 )、西南側に出水里(いずみのさと)があった。この中で渡来系氏族と言えば小宅秦公である。当時、揖保川は少宅里(をやけのさと)の東側を貫流していたことを考慮すれば古墳にも極めて近い位置にあったと言える。
この辺りの地形は東は、西に行くほど低くなっている。揖保川が氾濫を繰り返す度に流路を西へ移動させ、現在の形に落ち着いたのは十六世紀頃と見られている。航空写真で地形を観察するとそれが分かるそうだ。また、過去の揖保川は数多くの支流に分かれ、それらが複雑な網の目のように交叉していたことも判明している。
従って古墳の被葬者は 小宅秦公 、とりわけ川原若狭(小宅若狭)一族、小宅智麻呂、更に中世へと続いて小宅将司季政(万歳長者)などが被葬者の可能性が高い。
理由は前述した如くであるがもう一度整理すると、
先ず玄室の床が正方形に近く、古墳時代初期に北九州で発見されている石室に近いこと。即ち、これは朝鮮半島(秦韓)で発見される古墳に極めて近いこと。
第二に出土品の「金製耳飾り」が新羅(秦韓)製であること。更に鉄剣・こはく玉・ガラス玉など王に相応しい華麗な副葬品が多数あること。
第三に装飾付須恵器は新羅(秦韓)の技術を用いて作成されていること。
第四に玄室内に中世の宋銭三枚があり、十一、二世紀頃まで追葬がなされていることなどである。
『隋書・東夷伝』は煬帝が文林郎裴清(はいせい)を倭国に派遣したことを伝えているが、その中で『・・竹斯国(ちんしこく) (筑紫 )に至りまた 東(ひがし)して 秦王国(はたおうこく)に至る。その人 華夏(かか)(中国)に同じ』と言う文章がある。この「秦王国」は 少宅里(をやけのさと)(漢部里 )の可能性がある。単に秦氏が住んでいるのであれば「秦国」、或いは「秦人国」、或いは「漢人国」で良いのではなかろうか。此処で「王」と言う語を用いているのは王国に相応しい居館・振舞い・雰囲気の里があったと報告していると解釈するのが自然である。「秦王国」は「秦(しん)の王国」である。この時点での王は年代的に 小宅若狭(おやけわかさ)川原若狭)である。
西宮山古墳と直ぐ近い所に 狐塚古墳(きつねづかこふん)と呼ばれる古墳もあるがこちらは現在も残っている。この 狐塚(きつねづか)古墳 も六世紀末の築造であり、西宮山古墳と同系の氏族の墓とされる。
因みに、狐塚古墳の近くに昭和36年、国民宿舎「赤とんぼ荘」が建設された。「赤とんぼ荘」の名の由来は龍野出身の詩人、三木露風の詩「赤とんぼ」に因んで命名されたものだ。「赤とんぼ荘」建設時に、更に、二つの古墳(白鷺山古墳(しらさぎやまこふん) )が発見された。この古墳も六世紀末の築造である。玄室の天井石は同荘の玄関脇に据えられ現在、観光客を迎えている。

秦氏の渡来―太田亨説

太田亨氏は「姓氏家系大辞典」の中で「秦氏は天下の大姓にして、其の氏人の多き事、殆ど他に比なく、其の分支の氏族も亦少なからず。而して上代より今に至るまで各時代共、恒に相当の勢力を有する事も他に類例なかるべし。後世、皇別・神別の波多、八多等の氏が反って秦氏と称するもこの氏の偉大なるを語る」と述べている。更に、同氏は「秦氏の渡来の時期」を四つに分けて、第一は仲哀天皇朝八年(秦始皇帝三世孫孝武王後裔の功満王渡来)、第二は応神天皇朝十四年(弓月君が127県の百姓を率いて渡来)、第三は応神天皇朝十六年(秦氏の人夫が渡来)、第四は欽明天皇朝元年(秦氏と同族の己知部(こちべ)の渡来)と説明している。
同氏は秦氏渡来の理由は「新羅」建国にあるとする。即ち、辰韓(秦韓)12ケ国の一国であった 斯蘆(しら)国が西暦380年頃、勢力を増し新羅(しらき)として独自に中国と交通を始めたことを指す。斯蘆(しらき)国興って辰韓は弱体化した。辰韓の名門秦氏一族はこの政変を嫌って日本に渡来したと述べる。この時期、四世紀後半は日本では仲哀天皇・神功皇后(じんぐうこうごう)の御世であった。
秦公と言う称号について太田亨氏は「秦公は秦氏の首長にして応神朝内地に移りし弓月君の後也。弓月君秦始皇帝三世孫孝武王より出づと伝えられる。「辰韓」を「秦韓」というのは其の民が秦の遺民よりなるが故也。さらに、天日槍族が秦氏族の最初の日本移住者である。」と述べる。
以下、同氏の説明は続く。
秦公」の「秦」は「出身氏族」を表し、「公」は「家格」を表す姓(かばね)である。姓には二種類あって、一つは「原始的カバネ」で民間から自然発生的に起こった呼称とする。それは地名または職業名に 公(きみ)、彦(ひこ)、梟帥(たける)( 建 )などを付して、その地又はその職業団体の長である事を表すのが風習だった。「原始的カバネ」の時代は神代から仲哀天皇朝までである。もう一つのカバネは朝廷から付与されたもので、君(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、弥(すくね)。首(おびと)、真人(まひと)、直(あたえ)、忌寸(いみき)などが相当し天武朝以後のことである。
少宅秦公(おやけはたのきみ)の「公(きみ)」は「原始的カバネ」に相当すると思われる。渡来時期は仲哀朝であり、秦韓の地で既に王家の一族であったであろう。その意味で天日槍(あまのひぼこ)と同じ系統である。播磨国風土記では揖保川流域において天日槍の足跡を伝える伝承が多く残っているが、はからずも少宅秦公天日槍も一つの連鎖の中にある可能性がある。
原始的カバネとしての「公(きみ)」は「勝(すぐり)(村主(すぐり))」や 吉士 に比べると別格に高い家格であったようだ。少宅秦公 は播磨西部の四世紀後半から五世紀にかけてこの地域を支配する酋長だった。川原若狭の祖父が少宅秦公の女を娶って「少宅 」を名乗った理由もここにある。
遠い昔のことは良く分からないのが実情であるが、それでも研究の結果分かったこともある。それによれば少宅秦公の時代から300年後の世界、奈良時代は国民は平等という概念は無く、国民の種類は四つに分けられていた。
一は姓(かばね)を有する者でこれは極めて数が少ない。奈良盆地など朝廷のある中央には多く、地方では数百人にひとりくらいしかいなかった。
二は 氏 のみの者でこれも比較的に少なかった。
三は 部(べ)名を負う者、掃守部、鍛冶部等々であり、人名を負う者もいた。国造人、秦人、蔵人などである。これが国民の大多数を占めていたようだ。
四は奴婢・家人であるが少数である。犯罪を犯すと奴婢にされた。
一例として、大宝二年(702年)における美濃国春部里の国民の種類別人口構成を表す戸籍が残っていてそれを見ると里の総人口631人中、一は5人、二は10人、三の内、部名を負う者116人、人名を負う者7人、四の奴婢が13人であった。奴婢は良民と区別され財産と見做され売買の対象だった。

小宅郷(おやけごう)、小宅庄(おやけのしょう)‐中世に向かって

経師(きょうじ)勘籍(正倉院文書)に「播磨国揖保郡小宅郷戸主呉部首種麿(へぬしくれべのおびとたねまろ)戸口、秦田村君有礒(はたのたむらのきみありいそ)」が奈良の都で東大寺の 経師(きょうじ)・校生(こうせい)の仕事をしていたと記載されている。「経師」とは経文を書き写すことを業とする人であり、「校生」とは校閲のことである。彼は 小宅里(小宅郷(おやけごう))を旅立ち、遥か遠く奈良の都に出て天平15年(743年)から天平勝宝四年(752年)まで写経所で働いていた。秦田村君有礒(はたのたむらのきみありいそ)はは頭が良く、漢字を上手に書ける青年であったのであろう。この間、東大寺大仏の造立工事は746年から再開されていた。三年間に八回の改鋳を繰り返した後、天平勝宝元年(749年)十月に完成した。
小宅庄(おやけのしょう)は 小宅郷(小宅里)を継承した荘園で、揖保川下流域東側、現たつの市龍野町小宅北が遺称地である。北西に 揖保庄(いぼしょう)、南西に浦上庄(うらかみしょう)、南東に弘山庄(ひろやましょう)があった。日山は現在兵庫県立龍野高等学校があり、西宮山古墳のあった場所である。樋山(ひやま)(日山)の地名の由来については、「播磨鑑(はりまかがみ)は(江戸時代の地誌。1762年頃成立したとされる。 著者は 平野庸脩(ひらのようさい)で播磨国印南郡平津村(現加古川市米田町平津)の医者であり、また暦算家であった。は「峯相記(みねあいき)」の記事を引用して次の様に説明している。                                                                                            「【樋山(ひやま)の由来】峯相記曰く『小宅郷ニ万歳長者ト云者有リ。又揖保ノ庄ニ四弓(こぶ)ノ長者ト云者有キ。聟舅(むこしゅうと)ト成テ互ニ興ヲ催ス 日酒ヲバ樋ニテ(大河ヲ)越渡シケリ。彼所ヲ樋山ト云。諸ノ寶ニ飽満テ万事豊堯也キ。四弓(こぶ)ノ長者ハ未申(ひつじさる)ノ方ニ氏寺ヲ造テ子孫滅亡ト云々。今ノ大道寺是也。彼ノ屋敷ハ揖保ノ男上ト云々。万歳長者も跡絶タリ。又近年小宅ニ童部牛ヲ飼テ夕ニ反テカシコナル石塚ノ中ニ黄色ニ光ル石有リト語ル。或仁聞得テ尋行ケルガ。其夜妻子ヲ引具シ跡ナク逃失。此所ハ長者ノ旧地也。イカサマニモ金ニテ侍リケルカ。』
現代文にすれば以下の如くになろうか。峯相記(貞和四年(1348年)頃の播磨地誌)曰 く。小宅郷(揖東郡)に 万歳長者(まんざいちょうじゃ)小宅庄司季政)がいた。揖保(いぼ)庄(揖西郡伊保荘(いっさいぐんいほのしょう))に四コブの長者がいた。この二人は 聟(むこ)と舅(しゅうと)の間柄であったが、酒を樋に入れ大河(揖保川)を行き来させ酒宴を開いた。それで此処を樋山(ひやま)(日山)と言うようになった。

樋山村(ひやまむら)(現在の小神(おがみ))は諸々の宝に満ち豊かな村であった。四弓(こぶ)ノ長者の屋敷は男上(小神(おがみ))にあったが、南西方向(古くから良くない方向とされる)に氏寺を建てたので子孫は絶えた。現在の大道寺はこれである。万歳長者の跡も絶えた。又近年、牛飼いをしていた子供が、帰宅途中で石塚の中で黄色く光っている石を見つけた。そのことを聞いた人が、その石を探しに行ったが、その夜、その家族は子も連れて姿を消してしまった。石も無くなっていた。その場所は長者の屋敷跡だった。どうも金であったらしい。」
「石塚」とは西宮山古墳跡だろうか、或いは、たつの市龍野町小神の四コブの長者屋敷跡だったのであろう。
揖保川の東側(揖東郡・小宅郷)に 万歳長者、揖保川の西側(揖西郡・伊保荘)に四コブの長者がいて二人は 聟・舅の間柄であった。二人は揖保川越しに渡した 樋 に酒を流し酒宴を催した。中世へと時代が移っていく中で、少宅秦公の末裔が日山(樋山村 、現在の小神)を含めた地域まで拡大していると捉えて良いのではなかろうか。
尚、歴史の謎研究会が「不思議な地名の日本地図」と言う書籍(青春文庫、2004年7月刊)の中で、「日山」を取り上げ次の様に述べている。
「古い家並みや武家屋敷が残されるたつの市は、播磨の小京都と呼ばれている。その市街地を揖保川が縦断する西側に、龍野町「日山」と言う町名があり、昔、二人の長者がここにある物をつくって酒を酌み交わしたという。
いったい何をつくったのかー。
昔、揖保川の東側の小宅に万歳長者、西側の揖保に四コブの長者という、それはそれは、たいそうな金持ちが住んでいた。万歳長者に娘が一人いた。気立ての良い娘で、しかもとびっきりの美人。しかし、それがゆえ、結婚を申し込む者は一人としていなかった。そこで、四コブの長者が、「わしだったら、万歳長者は許してくれるだろう」と、縁組を持ちかけてみた。すると、思ったとおり万歳長者は大喜びでそれを受け入れ、すぐさま嫁入りの日を迎えたのであった。
「これで、わしたちは 婿と舅の関係になった。末永く酒を酌み交わそうではないか」と、二人は毎日、お互いを屋敷に招待しあい、酒を呑みあかしたのである。
或る日、いつもの宴会の席で、二人はどちらともなく、こんなことを言い出した。「二人の財産を合わせたら、わしたちは誰にも負けないくらいの大金持ちだ。これでみんなをあっと言わせるような、大きいことをやってやろうじゃないか」
「おお、それは面白い、ぜひともやってやろう。よし、わしたちの二つの屋敷の間に、樋(とい)を渡すと言うのはどうだろう。川を越える長い長い樋だ。その樋に酒を流せば、互いの屋敷を行き来しなくても、座敷に座ったまま、すぐに酒盛りができるというものだ」
そうと決まれば、話ははやい。さっそく二人はたくさんの人を集めて、二つの屋敷のあいだに長い樋をつくらせた。そして、樋に酒が流されると、その東の端に万歳長者、西の端に四コブの長者がゆったりと座敷に座り、樋 の酒を酌んでは、日中から日酒を楽しんだと言う。
二人が渡した長い樋を架けた山は「桶山(ひやま)」と呼ばれた。それがいつぐらいからか「日山」に変わり、今に残された。
以下も 播磨鑑 の記述である。
『【手枕野】  小宅樋山聟(むこ) 小宅片山ノスソ   入野トモ云   人丸ノ歌ニ
        いつしか妹か手枕にせんと云より手枕野と云
        ふたりせし手枕野とは名付けん
           末の代まても跡をのこして
 【樋山】   とひの酒流れたへせぬ盃の
        其世の名をはここにのこして
        古しへに酒をは流すひの山と
           末の代まてのむかしかたりは
 【男上 】     四コフ長者ノ屋敷ヲ云
        千歳と万歳楽と打ふしに
           むこもしゅうとの名をのこしつつ      』

播磨鑑はさらに続けて次の様に述べている。
『小宅ノ郷には 万歳長者有此所を長者屋敷と云  千貫の銭を埋めみし所は寺の内と云此所に櫻ノ木の大木有甚匂ヒける事有故に匂寺と云    小宅右衛門次郎か構居の跡ハ毘沙門堂の 後 ロに有し不動寺と申す   不動寺の跡ハ今堂本と云処の由清海比丘と云寺の由』。
 現代文にすれば、以下の如くである。
『小宅郷には 万歳長者(まんざいちょうじゃ) (小宅庄司季政(おやけしょうじすけまさ)のこと、北方村(ほくほうむら)に住んでいた)という者が居て、その屋敷は長者屋敷と呼ばれていた。千貫の銭を匂寺(におひてら)の大木の根元に埋めた。小宅右衛門次郎の構居の後に不動寺の毘沙門堂があった。此処は現在、堂本と呼ばれている場所の清海比丘寺のことである。』
万歳長者は小宅右衛門太郎の祖にあたる。小宅庄司季政(万歳長者)は智麻呂の末裔であろう。小宅の里に住み長者屋敷の主だった。天平17年(744年)、行基の開山を支援して北方村に一宇(いちう)を 建立 した。この寺は小宅寺と名付けられた。永禄年間、雷火で焼失したのを、寛永年中、良範上人が 再建(さいこん)、真言宗金輪山小宅寺と改称した。
堂本は現たつの市龍野町堂本のことであり、位置は小宅里の中心部やや南になる。

小宅宿(おやけじゅく)

建長寺(鎌倉市山ノ内)は鎌倉幕府五代執権、北条時頼が創建した禅宗寺院で、建長五年(1253年)に完成し、落慶供養が営まれた。初代住職は宋からの渡来僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)大覚禅師、1213-1278)だった。ところが、寺院に必要な 一切経(いっさいきょう)(釈迦の教説にかかわる、経・律・論の三蔵その他注釈書を含む経典の総称)がなかったので、鎌倉幕府は宋から輸入をしたのが1256年(建長八年)のことである。
一切経 が宋から九州に着き、それを鎌倉に運ばねばならない。この時、播磨国守護代の命を受けその任に当たったのが御家人 広峰兵衛尉家永(ひろみねひょうえのじょういえなが)という人物である。彼に一切経持夫(一切経 を運ぶ人夫)十人と兵士一人が割当てられた。その 広峰兵衛尉家永に対して建長八年三月四日に播磨国守護代某夫役催促状が届けられた。内容は「小宅宿から賀古川宿までの夫役で、一切経が小宅宿に着くのは四月中旬ごろになる予定だから、そのつもりで用意をしておくように。日取りがきまったら重ねて通知するから、直ちに人夫と兵士を連れて 小宅宿 まで来るように」(広峰文書)と命じたものだった。
万歳長者が莫大な富を蓄えたのはこの様な小宅宿の経営を通してであったのであろう。
小宅郷は地理的に揖保川と林田川の間にある。中世においては、山陽道が今宿にて複線になって今宿―太市―斑鳩宿―弘山宿―小宅宿―小犬丸の龍野道が古代山陽道と平行して東西を結んでいたのである。今宿で分岐した龍野道は小犬丸で再び古代山陽道と合流した。尚、古代山陽道に比べて龍野道の方が通行に便利で、良く利用されていたようだ。そして、小宅宿 はその中でも最も栄えた宿場だった。
小宅郷の北五キロには「因幡道」が東西に走っている。因幡道は美作から津山、さらに北上し鳥取に向かう道であり、出雲にも通じる。現在は出雲街道(国道29号線)と呼ばれている。さらに小宅郷の南7キロの所には「備前道」がある。この道は吉備に通じ、現在の国道二号線に相当する。「因幡道」と「備前道」を縦方向に結ぶ道もある。それは飾万街道で 小宅郷 を通って両道を結ぶ。飾万街道は飾磨津(現在の姫路港、古代は「思賀麻江」。九八五年に 「飾磨津」と改称された)に通じる道である。
この様に見てくると 小宅郷 は水陸両面の交通から見て、誠に地理的に恵まれた場所にあったと言えるのである。

神功皇后の存在感

播磨国風土記では神功皇后のことは「大帯日売命(おおたらしひめのみこと)」、または「息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)」と表現されている。「神功皇后」は 諡名(おくりな)(死後の称号)である。播磨国風土記は生前の呼び名を使用している。
日本書紀は「神功皇后」、「気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」と記し天皇と同格に扱う。これは編著者の意図の反映であると言う見方が一般的である。古事記は 気長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)大帯日姫命(おおたらしひめのみこと)大帯姫命 (おおたらしひひめのみこと)足日女(たらしひめ) であり、播磨国風土記に近い。大帯日売命(おおたらしひめのみこと)の父は気長宿禰王(おきながすくねおう)、母は葛城高額媛(かつらぎたかぬかひめ)(天日槍命の子孫)、息子が応神天皇品太天皇(ほむだのすめらみこと))である。日本書紀は、「神功皇后 は幼時から聡明で叡智に溢れ美貌であり、父さえも訝(いぶか)られる程であった。」と記述している。
日本書記は 神功皇后の出生は170年、23歳の時(193年)に仲哀天皇の皇后となり、201年から皇太后として269年に100歳で没するまで69年間摂政を行ったとしている。神功皇后摂政元年を201年としたのは中国の正史『三国志』の「魏志倭人伝」の卑弥呼の記述と整合性をとる為に書紀の編者が創作したとする説が有力である。日本書紀の編者は、720年の時点で「魏志倭人伝」を読んでいたようだ。「魏志倭人伝」の卑弥呼の記事を神功皇后条に引用する形で、神功皇后卑弥呼であることを仄めかしている。神功皇后・三十九年条に次の記述がある。()内は魏志倭人伝の記述である。
「三十九年、この年太歳己未(つちのとひつじ) 。―魏志倭人伝によると、明帝(曹丕 の長男・曹叡)の景初三年(239年)6月に、倭の女王大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって 貢(みつぎ)をもってきた。太守の鄧夏は役人を付添わせて、洛陽に行かせた」。
(景初二年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わし詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、を遣わし、将って送りて京都に吏郡に詣らしむ。)
魏志倭人伝はこの前の文章で「倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名ずけて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす」と記述しており、ここの「倭の女王」は「卑弥呼」を指している。
卑弥呼明帝に朝貢の使いを出したのは、景初三年は西暦239年なので神功皇后摂政期間(201年から269年)内の239年ということになる。
ただ、魏志倭人伝が「卑弥呼 」と書いたから、恰も「卑弥呼 」は既成事実となってひとり歩きしている感がある。中国人(漢人)が日本人の呼び名を聞いて、果たして正確に聞き取れていたものなのか極めて怪しい。本当に「ひみこ」と言う名前だったのか。固有名詞ではなく、「巫女(みこ)」の一般名詞だったかも知れない。「巫女 」の前後に固有の別の名前があったのかも知れない。或いは「比売命(ひめのみこと)」か「大帯日売命(おおたらしひめのみこと)」だったかも知れない。「みこ」は一般名詞としては「皇女」を指す。
日本書記は 神功皇后52年条で「秋九月十日、久氐(くてい)(百済・近肖古王(きんしょうこうおう)の使者)らが(神功皇后に) 七枝刀(ななつさやのたち)一口を奉った」と記している。この 七枝刀 は369年(東晋の太和四年)に作られたものであることが判明している。従って 神功皇后52年が369年以前ではあり得ない。
三国史記・百済本紀は前年(371年)に、近肖古王(きんしょうこうおう)は高句麗を攻撃し、高句麗王 故国原王(ここくげんおう)を討ったことを伝えている。近肖古王は強敵高句麗との戦闘を背景にして、倭と同盟関係を強化するため戦闘の翌年・西暦372年に贈ったのが 七枝刀(現在、石上神宮(いそのかみじんぐう)(天理市)にある)であろうと言われている。
さらにこの後、日本書記では 神功皇后55年条で「百済の肖古王(しょうこうおう)が 薨(こう)じた」と記述している。三国史記・百済本紀はこの件については、近肖古王 は30年(西暦375年)条に「冬十一月、王が薨去した」と記述している。神功皇后摂政期間を201年から269年とすると、明らかに期間を逸脱している。二干支(120年)をずらすと、摂政期間は321年から389年までとなり三国史記・百済本紀の記述と編年的に一致する。
以上のごとく日本書紀は 神功 皇后 元年を201年、または321年にするか相矛盾する。日本書記が編纂されたのは720年であり、神功皇后が活躍した時代から400年、500年が経過している。木簡に書かれた漢字の断片や古老の言い伝えを繋いでの事実関係の把握は困難を極めたに違いない。編纂の任にあった 舎人親王(とねりしんのう)卑弥呼神功皇后は同一人物と信じていたのではなかろうか。
歴史学者の間では 神功皇后 実在説、非実在説、複数説などがあって確定していないようだ。しかし、播磨国風土記を読む限りにおいては、神功皇后は実在していたとして良いように思われる。年代は新羅征討や応神天皇の筑紫での出産、さらに高句麗広開土王の碑文などから推測して,神功皇后摂政元年は321年が一般に妥当とされている。
日本人は古来、神功皇后の三韓征伐を信じてきた。古来種々な文献に登場している。例えば「古語拾遺」(807年斎部広成著)に「(神功皇后は)新羅を征伏(うちしづめて)めて三韓始(みつのからくにはじ)めて朝(まい)く。百済国(くだらのくに)の 王(こにきし)、 懇(ねもごろ)に 其の誠(まこと)をいたして、終(つい)に欺弐 (ふたごころ)無し」と記述している。播磨国風土記では揖保川流域に 息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)として二回、大帯日売命(おおたらしひめのみこと)として三回、計五回登場する。揖保郡(いぼのこほり)計五回は播磨国風土記の中で最多である。神功皇后摂政に於いては 揖保郡 が重要な意味を持っていたに違いない。
『御津(みつ)息長滞日売命(おきながたらしひめのみこと)、御船(みふね)を宿(は)てたまひし泊(とまり)なり』(御津(みつ)
息長帯日売命、韓国(からくに)より還(かえ)り上り(のぼり)たまひし時に、御船(みふね)此の村に宿(は)てたまひき』(萩原里(はりはらのさと))。少宅秦公神功皇后の接触はこの時である。『言挙阜(ことあげおか)と称(い)ふ所以(ゆえ)は、大帯日売命(おほたらしひめのみこと)の 時 に、行軍(いくさだち)したまふ日に、此(こ)の阜(おか)に 御(おは)しまして、軍中(いくさびと)に 教令(のりごと)して曰(い)ひたまひしく、「此の御軍(みいくさ)は、慇懃(ゆめ)な言挙(ことあげ)せそ」といひことあげをかたまひき。』(言挙阜(ことあげをか))『宇須伎津(うすきつ)。右。宇須伎(うすき)と名づくる所以(ゆえ)は、大帯日売命 、韓国を平(たひら)げむとして 度(わた)り行(い)でましし時に、御船宇頭川(みふねうづかは)の泊(とまり)に宿(は)てたまひき』(宇須伎津(うすきつ)
『宇頭川といふ所以は、宇須伎津の西の方(かた)に、 絞(うづま)ける 水の淵(ふち)有り。故(かれ)、宇頭川(うづかは)と 号 く。即ち、是は大帯日売命、船(みふね)を 宿(は)てたまひし泊(とまり)なり。』(宇頭川(うづかは)(揖保川(いぼがわ)))
以上五回はすべて瀬戸内海沿岸地域で、彼女は軍船を率い「戦い」に赴く。のんびりと行く巡幸ではない。
播磨国風土記は古老の語る伝承を脚色することなく、当時の思いをそのままに記述し編著に当たっての意図的な変更は少ないと見られている。従って、息長帯日売命大帯日売命の存在を素直に信じるのが自然ではなかろうか。
ところで 大帯日売命は男まさりの君主であり、巫女であり全軍の総帥である。女性の社会的地位や軍事的・政治的役割がまったく男女平等というのが騎馬民族国家の特徴である。また、古代騎馬民族では巫女は常に全軍に従軍し、神の意志を聞きながら進軍するのが普通だった。これは扶余における 金蛙(くむわ)王、高句麗の朱蒙(しゅもう)も同じだった。国家にとって大事な運命は巫女を通して神の意志を聞くのである。
神功皇后は巫女であり、かつ同時に全軍の総帥であり王であった。神功皇后の存在は草創期における古代大和朝廷と騎馬民族国家が酷似していることを暗示している。高句麗建国者朱蒙の妻となった 召西奴(そその)も政商団の君長であり、並み居る王と取引もする。また、商団内の軍団を率いて自ら敵に戦闘を仕掛けることもある。召西奴神功皇后は同じタイプの女性である。民衆は皆彼女を尊敬し、従うのが当然という存在であった。
滋賀県米原市能登瀬が 神功皇后生誕の地だそうだ。現在の名神高速道路米原IC近くに、東西に流れる天野川(別名 息長川(おきなががわ))がある。この川の北に能登瀬の集落があり、その背後の森に鎮座するのが 山津照(やまつてる)神社である。山津照神社は、息長氏の祖神としての国常立命(くにのとこたちのみこと)を祀っている。この近辺に 息長(おきなが)小学校、息長(おきなが)郵便局、息長(おきなが)橋など 息長の付いた地名が多い。また、この地域は天日槍由縁の地であり、古くから渡来人の居住地でもある。
先述の萩原里(はりはらのさと)の記述、『息長帯日売命 韓国より還り上りたまひし時に、御船此の村に宿てたまひき』とあるが、この記述を受けた形で、次の小宅神社(兵庫県たつの市龍野町宮脇287)の由緒書きが存在している。『神功皇后、三韓征伐からの凱旋の際、御船を萩原の里に碇せられし時、漢部里少宅秦公香坂王(かごさかおう)の叛逆を応神天皇に内奏せしかば、皇后これを喜(えみ)し給い、楕円形の自然石を賜ひぬ。』
因みに、この楕円形の自然石は小宅神社に現存しているとのことである。(小宅神社宮司)

大和王朝建設後の渡来人と古代人口構成

倭国へ、播磨へ古代には渡来の波が続く。渡来と言う場合、日本の地に主権国家らしきものがあったと言うこと、即ち大和王権後について整理すると、以下のようになろうか。
1)自らの意思で渡来、「来帰」、「帰化」、「投化」など。
2)漂流によって偶々渡来した。「漂着」である。
3)外交使節としての渡来、「番客」、「朝貢」、「来朝」など。通常一定期間、滞在した後、帰国するのが一般だがそのまま永住してしまった。
4)人質として無理やり連れて来られた渡来、「質」である。通常一定期間倭国に滞在した後、帰国するが永住する場合もあった。
5) 贈与による渡来、「貢」、「献」など。
6)略奪による渡来、「捕」、「虜掠」など。鉄器製造技術などを有する集団を捕虜にしてしまうなど。
7)交易者として渡来、「商人」、「商客」など。

渡来は紀元前から繰り返されており、大和朝廷以前は渡来者は以前から住んでいる豪族と適宜折り合いを付けながら、自分の好む土地に自由に住んだようである。
大和朝廷が力を増す過程において、国司・郡司は渡来者があると中央へ報告義務があった。渡来者は大事に扱われ、土地・住居なども与えられることが多かった。課役義務は十年間免 除された。しかし、租(税)はしっかり取ったようである。
播磨国風土記の記述に従えば、現在の山陽本線網干駅を中心とした周辺地域、揖保郡太子町、姫路市勝原区、大津区、網干区、天満区、広畑区などは渡来系の人々の居住域と播磨国風土記は述べている。とは言っても、西日本弥生時代住民の七、八割は大陸から移住者だったというのが最早、定説である。最近は渡来したのか、昔渡来したのかの違いだけである。縄文時代からの土着人と婚姻などを通して融合することもあったが、土着人徐々に北と南の方に追いやられてしまったようだ。
「播磨国風土記」では渡来人は多くの場合、天皇の命令・バックアップの下で、天皇の直轄地に移住するという形が多い。先進技術を有する彼らは土地の住民を指導・教化する立場が多かった。

播磨西部住人の起源

播磨西部が当時、文化的に先進地域だった理由もここにある。
ところで、揖保川流域の住民はそもそも何処からやって来たのか、と言うことについて今一度整理しておきたい。
当然のことながら、或る雨の日、一発の雷鳴と共に私たちの祖先が忽然と揖保川流域に出現したわけではない。現在、判明している確かなこととしては、1万2000年以上前の縄文前期時代の集落跡がたつの市誉田町片吹(かたぶき)に見つかっていることである。場所は揖保川と林田川の間にあり、西播磨平野の中央部である。瀬戸内海にも近い。現在は、姫路バイパスの「片吹」ランプ近く、国道二号線の 太子町(たいしちょう)西、松原(まつばら)交差点近くにあたる。ここから、縄文前期の五軒の竪穴式住居跡と無数の石器・土器が出土した。彼らの生活は採集・狩り・漁であった。片吹遺跡は揖保川の下流域の平野部である。揖保郡(いひぼのこほり)の人々の生活はこの辺りから、1万年数千年以上前から始まった。片吹遺跡からは、さらに縄文時代中期末〜晩期、弥生時代後期〜古墳時代へと続く集落跡が発見されているのでこの場所は現代まで継続的に人々が住んでいる。
片吹遺跡に住んでいた人は何処から来たのだろうか。現代の学問では概ね次の様になる。400万年前、アフリカ大陸のビクトリア湖の近くに、アウストラロピテクス(「南のサル」の意味)が現れた。このアウストラロピテクスは小柄だが頑丈で、類人猿とよく似ていた。しかし、重要な違いが一つだけあった。それは直立して歩く能力があったということである。さらに340万年前、ビクトリア湖の北、エチオピアで「ルーシー」と名づけられている女性の骨格が見つかった。このルーシーはアウストラロピテクス・アファレンシスに属していた。さらに250万年前、最初のホモ属ホモ・ハビリス(「能力ある人」)が現れた。脳の容量が大きく道具(石器)を作り、火を使用した(最初の火の使用は100万年前)。この時の最重要技術は石製ハンドアックス(握斧)だった。
現生人類は10万年前から20万年前にかけてアフリカで進化した。狩猟採集民として道具を作る技術を持ち、意思を伝達して集団を形成する能力を持っていた。彼らは環境の異なる地球上の様々な地域に進出し環境に適応した。長い年月をかけてアフリカを基点にアジアへ、ヨーロッパへと現生人類は居住地を拡大した。
紀元前35000年には彼らは、既にヨーロッパに移住していた。アフリカに出現した現生人類は地球上の全ての地域に移動し始めた。中央アジア、インド、中国、日本、南アジア諸島、オーストラリア、シベリヤ、ベーリング海峡を越えてアメリカ、更にメキシコ、南アメリカなど地球上の全地域に拡がったのである。
中国では現在の福建省(ふっけんしょう)で紀元前9万年の現生人類集落跡が発見されている。日本の最古の遺跡は紀元前3万年の長崎県、福井洞窟で発見された遺跡である。揖保郡の片吹遺跡はそれよりも2万年送れて紀元前12000年頃のものである。人間は長い年月の間にそれぞれ住んだ場所の自然環境に適応して人相、姿、形、皮膚の色などが変わった。従って現在の日本人も元を正せばナイルの上流、中央アフリカの出身である。
150万年前の地球は寒冷期で、海面は現在よりも40メートル以上も低かった。従って、アジア大陸はもっと海側にせり出し、現在の台湾や九州はアジア大陸の一部分、大陸の東南端に過ぎなかった。その後、中央部の黄海の領域が沈下し、九州・種子島・屋久島・奄美大島・沖縄島・慶良間(けらま) 諸島・宮古島・石垣島・与那国島(よなぐに)・台湾は沈下せずにそのまま残った。それらが繋がって大陸から日本に延びる巨大な陸橋が形成されていた時期もあった(木村政昭琉球大学教授)。
従って、アフリカに出現した現生人類は歩いて台湾や九州に来ていたのである。日本本州・北海道・千島列島・カムチャッカ半島・シベリヤ大陸も陸続きだったので、アジア北東部からも人々は歩いて日本にやって来たのである。更に、マレーシャなど南の海洋から舟でやって来た人々もいる。
紀元前10000年頃(縄文時代)から、地球は温暖化に向かい始め、紀元前6000年頃までの間、海面は急激に上昇に転じた。現在の調査では、100年ごとに2メートルずつ海面が上昇したことが分かっている。海面上昇が最も高くなった時、即ち紀元前6000年頃は海面が今よりも更に5メートルも高かった。だから、日本列島の地表面積が現在より小さかった。播磨国風土記が扱っている伝承がこの時代に重なっている部分がある。紀元前6000年から紀元前4000年にかけて、今度は徐々に海面が下がり現在の海岸線に落ち着いた。
人類は石器時代・縄文時代の厳しく激しい気候変動の中を、知恵と勇気と体力を有効活用して地球上の全地域に勢力を広げ生き残ったのである。そして、偶々アジア大陸の東端に達していた人々がわれわれ日本人の先祖である。彼らが居住していた地域が紀元前10000年頃(縄文時代)から始まった海面上昇により、大陸から切り離されそれが日本の原型となった。ところで中国の長江下流域には古くから、倭人と呼ばれていた人種が住んでいたらしい。
『周(紀元前1000年〜紀元前250年頃)の時、天下太平にして、倭人来たりて 暢草(ちょうそう)(霊芝(れいし))を献ず』(「論衡」、中国・後漢時代の王充(27年〜1世紀末編著)の記述がある。この記述は「呉」や「越」の記述と並べて記されているので、これらの国の住人と見做すことができそうだ。この倭人たちが常時、更に当時の社会的・政治的動乱を避けて朝鮮半島や日本列島に亡命したと言う見方である。
さらに越人と称される人種もいたようだ。倭人は「呉」、越人は「越」国を形成し、互いに隣国だった。「呉」は後に「越」によって滅ぼされ、この時「呉」の倭人は大量に朝鮮半島や日本に移住したようだ。その後、「越」も「楚」によって滅ぼされ、海洋人である越人は主に海を渡って、同じ様に朝鮮半島や日本に逃れたようだ。倭人も越人も文化的に似通っていた。秦による中国統一後、時代が進むに連れて「倭人」、「倭国」は日本列島を中心とする表現に変わったと考えられる。室町時代の僧侶 中厳円月(ちゅうがんえんげつ)(1300〜75)が著わした書「日本書」には「神武天皇は呉の泰伯(たいはく)(太伯、呉の建国者)の子孫」と記しているとのこと。(学習院大学名誉教授・諏訪春雄)。
日本古代人口を研究する学問があって、それによると縄文時代晩期(紀元前3世紀頃)の日本の全人口は75800人だそうである。それから1000年後、西暦700年の人口は、5399800人である。この間の人口の増加率は、通常の人口増加率に比べると、異常に多いのだそうである。即ち、自然発生的に増加したものではない。この間に人口爆発あったことが定説になっている。特に関東、中部、東海、近畿、九州の人口爆発が目立っている。
即ち、この1000年に大陸から、或いは朝鮮半島から日本列島に大量人口移入があったとしか考えられないと言うのだ。身分の上下を問わず、家族で、村ごと波状的・断続的・継続的に人々が移住したのである。その中でも近畿の人口増加率が断然トップである。東北地方の人口は縄文時代晩期に比すれば、むしろ弥生時代(7世紀)は減少傾向にある。北陸地方の人口増加率は世界の人口増加率とほぼ同じである。ところが先述した西日本一帯・中部・関東域だけは異常な人口増加を示しているのである。
古代において近畿を中心に人口が急激に増えているということは何を意味しているのか。それは大陸からの人々の移動のルートが対馬―壱岐―九州―瀬戸内海―大阪・奈良・京都で あったからである。しかも、播磨西部・揖保川流域はこのルートの中心部に位置している。中でも「揖保郡」は播磨国で18里を有し、当時では最大規模を誇る「大郡(おほごほり)」であったことがこのことを雄弁に物語っている。

(やまと)(大和)にこそ最も渡来人が多かった

未だ大和に王権無き時、地方酋長が各地で割拠している時代、大陸から陸続として人々がやって来た。そして、彼ら持参シタ先進技術で以って豪族として君臨することも多かったに違いない。大和王権そのものが彼らの中から建設サれたこともあり得るであろう。以上を裏付ける資料として、『吉備(きび)郡史』がある。そこには、倭 (大和)にこそ最も渡来人が多かったと書いている。『吉備郡史』は「大和の如きは事実上 漢人(あやひと)の国、山城は秦(はた)の国」と記述している。大和は大和王朝のあった 飛鳥(あすか)(明日香)、山城は京都である。
702年(大宝二年)に作られた 豊前国(ぶぜんのくに)(福岡県)の戸籍台帳には当時、豊前(ぶぜん)に住んでいた者の85パーセントが新羅系氏族であると記されている。『続日本紀』にも「凡(およ)そ 、高市(たけち)郡内は 檜前忌寸(ひのくまのいみき)及び17の県(あがた)の 人夫(にんぷ)地に満ちて居す。他姓(たしょう)の者は十にして一、二なりき」とある。播磨も秦氏族繁衍(はんえん)の地と言われている。
古代人口を統計学的に見ると、縄文人一、二割に対して渡来人が八、九割の人口構成比になる。こうなると最早、渡来人はわれわれの先祖であり、彼らが日本の礎(いしずえ)を築き、日本を形成したということになるであろう。
渡来人は朝鮮半島を経由して中国、中央アジア、ペルシャ、更にはインド、ローマからも来たようだ。シルク・ロード沿線の国々から、長い時間をかけて人と文化・文物が奈良の都までやって来ている。DNAを分析すると日本人は世界の中で最も、多民族国家であるそうだ。
王権確立後の大和朝廷も進んで渡来人を受け入れた。彼らの持つ高い技術や文化を積極的に取り入れて大きく時代を動かす原動力としたのである。漢字もその重要技術の一つであろう。
前にも引用したごとく、1987年8月30日の朝日新聞に東大理学部人類学教授の植原和郎教授の推定結果が紹介された。その記事のタイトルは「古代は渡来人ラッシュ!?/一千年で百万人も/自然増では説明つかぬ人口増」という見出しであった。
この状況を現在の日本の人口120,000,000人にあてはめると、毎年2,000,000人の人々が移住して来たという大変な事態に相当する。
関晃氏は著書「帰化人」で次の様に述べている。
「古代のこの時期に帰化人の存在が重要視される主な理由は、第一に彼らが中国や朝鮮から持ち込んだ種々の技術や知識や文物が、当時の日本社会の進展と文化の発達に決定的な役割を果たしたことである。・・・しかしながら、以前は日本人の固有の文化とか素質とかいうものを、何かむやみに高いものときめてかかる風潮があって、帰化人はそれを外から助けただけとする見方が強かった。しかし彼らが当時日本に持ち込んだ技術や知識は当時の日本のものに比べて桁違いに進んだ高度なものだった。そしてそれによって日本は始めて歴史の新しい段階に足を踏み入れることができた。」新撰姓氏禄は当時京畿に居住する社会のリーダー層、一千余の氏族の系譜を載せているが、その三分の一が諸蕃の部(帰化人)であることを踏まえて、
「祖先の数を計算してみれば分かることだが、現代のわれわれ一人一人は、すべて帰化人たちの血を10%や20%は受けていると考えねばならない。帰化人はわれわれの祖先そのものである。彼らのした仕事は、日本人のためにした仕事ではなくて、日本人がした仕事である。」
さらに平野邦雄氏も、その著「帰化人と古代国家」(吉川弘文館)の中で、「『帰化』(オノズカラマウク)という現象が波状的・継続的に続いたのは大和王権の一定の政治的意図があったからである。これは平安朝中期まで続いて、帰化人は我々の祖先となった。」と述べているのである。

品太天皇(ほむだのすめらみこと)の真実

品太天皇(ほむだのすめらみこと)応神天皇)は270年に71歳で即位し、310年に111歳で崩御、母は神功皇后とされる。歴史家は品太天皇(ほむだのすめらみこと)は史実性が認められる最初の天皇であるとする。但し、年代については中国の歴史書などとの整合性を考えると、即位の年を120年ずらせ390年に、そして430年に崩御とする説が一般である。
日本書紀は、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと)と書き、また 神功皇后の胎内にあった時から既に天皇になる宿命だったとして  胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)と言っている。この表記は、しかし別の憶測を呼ぶ。即ち、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)は元々、天皇の血筋にある者ではなかったので、敢えて胎の中から天皇だったと言う過激な表現になったのではないかと言うのである。古事記の表記は、品陀和気命(ほむだわけのみこと)である。
品太天皇(ほむだのすめらみこと)の誕生については未だ謎と言って良い。即ち、品太天皇は誰かである。日本書紀は仲哀天皇神功皇后の間にできた子としているのだが、果たして真実か。異論も多い。
日本書記は仲哀天皇条に『九年春二月五日、(仲哀天皇は)急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。時に年五十二』と書き、一方、応神天皇の出生については、神功皇后条で『(皇后は)新羅から帰られ、後の応神天皇を12月14日、筑紫で産まれた』と記す。2月5日から数えて、十月十日 が12月14日であるだけに、帰って不自然さを感じないであろうか。本当に仲哀天皇が亡くなる日、2月5日に 神功皇后が身ごもると言うのは不自然な感じが残りはしないか。何はともあれ、その様な緊急事態が発生した日に夫婦の営みがあったとは考えにくい。応神天皇は本当に仲哀天皇の子であろうか。むしろ応神天皇を恣意的に王家の系列に組み込む意図の下にこのストーリーが作られたと考えるのが自然である。
因みに、日本書記では、仲哀天皇の在位は西暦192年から200年までの9年間、神功皇后は西暦201年から269年の69年間、応神天皇は270年から310年までの41年間としている。その後は2年間空位があって、仁徳天皇に続く。但し、これは 神功皇后卑弥呼に見立てる為に日本書記の編者が意図的に二干支(120年)を前にずらしたとされている。即ち、神功皇后の在位は120年をプラスして321年からとする説が有力である。
さて、仮に神功皇后を母とした場合、父親は誰か。最も側で仕えていた人物は 武内宿彌(たけしうちのすくね)あり、彼以外にはあり得ないと述べる説がある。武内宿彌は蘇我氏を祖先とし 葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の父である。蘇我氏は後の世に、強大な権力を持つ渡来系豪族であり、蘇我馬子(そがのうまこ)蘇我蝦夷(そがのえみし)蘇我入鹿(そがのいるか)など歴史上の有名人物に混じって、蘇我韓(そがのから) 、蘇我高麗(そがのこま)など高句麗を思い出させる名前を持つ人物もいる。蘇我氏は娘たち(堅塩媛(きたしひめ)小姉君(こあねのきみ)その他)を皇室に嫁がせ、後に天皇家を牛耳り強大な権力を揮う。蘇我氏の血をひく天皇は数多い。用明天皇推古天皇崇峻天皇聖徳太子元明天皇持統天皇などである。
武内宿彌神功皇后応神天皇も高句麗系の王族の血をひく渡来系の指導者であると考えても不自然さはない。彼らを三輪王朝と接点を持たせる為に担ぎ出されたのが仲哀天皇と言う見方もできる。
その他、応神天皇は誰かについては様々な見解がある。
①河内平野の豪族の息子だった、
②筑紫の豪族の子が大阪に攻め上り王権を確立した、
③「海人」の末裔で筑紫を拠点に、瀬戸内海に覇権を確立した豪族の子が大阪に王朝を開いた、
④百済からの渡来王家である、などがある。
上記の推論はいずれも 品太天皇(ほむだのすめらみこと)応神天皇は大和出身ではないと主張していて、それまでの三輪王朝とは血統的に断絶しているとする。
奈良盆地に発展した三輪王朝と、大阪で政務を執った応神王朝は王統としての継続性が無いが通説である。記紀は、時の王権を強固にする為、仲哀天皇神功皇后 を持ち出し継続性を演出したとするのだが真実の程はまだ解明されていない。
一方、品太天皇は実在したことは先ず間違いないし、瀬戸内海を支配して中国や朝鮮半島に対して開かれた心を持っていたことは事実である。品太天皇は中国や朝鮮半島の事情に詳しい。そして、自由に外国の文化・文物・仏教を受け入れている。彼が朝鮮半島の王家の出身と考えるとこのことは分かり易くなる。

播磨国風土記と品太天皇(ほむだのすめらみこと)

播磨国風土記では賀古郡・印南郡・美嚢郡は天皇に関する記事が六割以上を占め、中でも景行天皇の記事(賀古郡三回、印南郡三回、美嚢郡一回)が最も多い。続いて多いのが 餝磨郡(しかまのこほり)・揖保郡・讃容郡・賀毛郡で天皇関連記事は四割を占めている。その中で 品太天皇(ほむだのすめらみこと) の記事(44回)が最も多い。それに対して、神前郡・託賀郡・宍粟郡は二割以下であり、回数も少ない。
最初の三郡は地理的に畿内に接しており、早くから大和王権の影響を強く受けていたことがその理由であろう。続く四郡は播磨国の中央部から西部に位置している。最後の三郡は播磨国の山間部にあった。
これら天皇記事の頻度は大和王権と当該地方の地理上の距離、時代の推移による大和王権の支配力拡大の推移に応じている見ることができる。即ち、景行天皇の頃には未だ西播磨に天皇家の影響力が及んでいなかったと考えるのが妥当であろう。品太天皇(ほむだのすめらみこと)の時代、四世紀末から五世紀になって始めて西播磨、即ち飾磨郡や揖保郡が天皇家の影響下に入ったのである。
「播磨国風土記」に登場する天皇は全部で20天皇であり、登場回数は 播磨国風土記全体で92回を数える。最も古い天皇は大三間津日子命孝昭)、最も新しい天皇は浄御原朝庭天武)である。どの天皇も概ね登場回数は一回か二回であるが、品太天皇応神)だけは、他に抜きん出て登場回数が断然トップで44回に達している。その中でも飾磨郡が10回、揖保郡は18回とこの二郡は特別に多い。
次に登場回数の多い天皇は 大帯比売命(おおたらしひめのみこと)神功皇后)で計9回である。そして又しても、その中で 大帯比売命の登場は揖保郡が最も多く5回に達している。時代が遡るほど揖保郡は重要な意味を持つ場所である。飾磨郡は1回、印南郡は2回、讃容郡は1回で、いずれも瀬戸内海沿岸の群である。
播磨国西端の揖保郡は両天皇にとって特別の意味があったと言えそうだ。先ず天下に覇権を唱える為の 橋頭堡(きょうとうほ)であった。
品太天皇は先述の四郡の中でも、揖保郡に登場する回数がトップである。何故、品太天皇 は何度も何度も揖保郡(いひぼのこほり)に巡行を繰り返すのか。この意味するところは、その在位期間、四世紀末〜五世紀前半は、大和王権にとって播磨西が戦略的に重要であったということではなかろうか。即ち、まだ何かと抵抗を試みる強大な吉備国へ睨みをきかせる必要があったようだ。さらに、播磨そのものがむしろ吉備国の一部になっていたか、吉備の影響を強く受けていた国であったのであろう。権現山古墳51号墳などからは吉備影響の祭祀道具が多数出土しているのである。大和王権の存続・拡大にとって、播磨西は重要な戦略基地であったのであろう。
揖保郡に登場する品太天皇(ほむだのすめらみこと)はいかにも天皇らしく余裕のある、穏やかな行動をする。ところが、同じ播磨国風土記でも賀毛郡(かものこほり)では「播磨(はりま)の国(くに)の田(た)の村君(むらきみ) 、百八十(ひゃくやそ)の村君(むらきみ)在りて、己(おの)が村別(むらごと)に相闘(あいたたか)いし時、 天皇勅(すめらみことみことのり) して、この村に追い聚(あつ)めて、悉皆(ことごと)に斬(き)り死(ころ)したまひき。故(か)、臭江(くさえ)と云(い)ふ。その血黒(ちくろ)く流れき。故に黒川(くろかわ)と号(なず)けき」とあり、品太天皇(ほむだのすめらみこと)の御世に戦乱の凄まじい世相が背景にあった事を示唆している。「田(た)の村君(むらきみ)」とは水田耕作を業とする村の首長たちのこと。その様な村々で内部に相争う者が絶えなかった。それで、
その様な輩(やから)を一ヶ所に追い込んで全員を切り殺した。そして、秩序が回復したと述べる。品太天皇は穏やかな名君であると同時に、勇猛果敢な武将であったのであろう。
因みに播磨国風土記に於ける天皇の呼び名であるが、安閑あんかん)天皇(531〜535年)からは 勾宮(まがりのみや)天皇のように、宮号(一家を立てた親王が天皇から賜る称号)での表記に変わる。これは 安閑(あんかん)天皇の頃から天皇は伝説上の人物ではなく、国の統治者として現実性をもって人々が認識していたことを示している。
品太天皇の御陵は大阪府羽曳野市誉田六丁目の誉田御廟山古墳(前方後円墳・全長425米・後円部高さ36米)に比定されている。この古墳の築造年代は、五世紀半ばである。
品太天皇の巡行範囲は、揖保川流域では北は佐佐村、南は酒井野までである。即ち、宍禾郡(しさはのこほり)には全く巡行の記述がない。品太天皇在位中の倭王権の関心は未だ宍禾郡には及んでいなかったと言えるであろう。南は酒井野までであり、それ以南は未だ弥生海退の影響で未開発だったのであろう。

品太天皇と北方騎馬民族(「夫余(ふよ)族」)征服説

一方、東京大学の江上波夫教授は応神天皇の出自について、朝鮮半島にルーツを持つ騎馬民族の大王で、北部九州で足場を整えた後、畿内に侵攻し王朝を開いたと主張する。東京大学教授の井上光貞氏も同じ意見だ。当時の世界は、今日ほどには国境の概念はなく、日本列島は単に大陸から海洋を隔て存在する島々に過ぎなかったのだろう。中国東北部から朝鮮半島に流入した人々は、当然の様に日本列島にも移動したと考えるのが適切である。それが歴史の実態と言うものだ。
江上波夫教授の説では崇神天皇は元々朝鮮半島南部の百済王家の人で、四世紀前半に海を渡り筑紫にやって来て、扶余・韓・倭の連合国を作った。そして自ら「ハツクニシラススメラミコト(初めて国を統治した天皇)」を名乗りこの地を統治したと言うものである。続いて、第二段階は応神天皇が主役となって、四世紀末から五世紀初にかけて、筑紫から畿内に進出し、河内平野に河内王朝を開いたと言う。
そして、この崇神天皇応神天皇を輩出した王家は元々、騎馬民族出自の「夫余(ふよ)族」である。
紀元前から三世紀頃にかけて、東北アジアを席巻した騎馬民族に「夫余族」がいた。この夫余族には世界最古の騎馬民族スキタイの血が混ざっている。スキタイと逃亡を続けるイスラエル十支族は共通の敵アッシリア帝国と戦う為、同盟を結んだと言う説がある。失われたイスラエル十支族が合流したスキタイ系騎馬民族は朝鮮半島に流れ込み、「夫余族」と呼ばれたとする説がある。
「三国史記」高句麗本紀によると、紀元前三十七年にこの 夫余 族に「朱蒙(しゅもう)」(当時22歳)と言う王が現れ、「高句麗 」を建国した。高句麗 と百済の王家は同祖で 夫余 族である。
「三国史記」百済本紀は分註の中で次の様に述べている。
百済の始祖は 沸流王(ふるおう)であり、沸流王の父は 優台(うて)、北扶余王・解扶婁(ける)の庶孫である。母は 召西奴(そその)で、卒本(ちょるぼん)延陁勃(よんだばる)の娘である。召西奴は優台に嫁いで 沸流(ふる)温祚(おんじゅ)の二人の子を産んだ。優台が死んだ後、召西奴は卒本で独り暮らしをしていたが、朱蒙は高句麗国を建てた後、召西奴を招いて王妃とした。国作りの初期において王妃の功厚く(特に財政面で)、朱蒙は王妃を愛し、沸流ら二人を我が子のように待遇した。しかし、朱蒙が扶余にいた時代に礼氏との間に儲けていた実子の 孺留(じゅりゅう)(後の高句麗二代目瑠璃明王)が、扶余から来ると 孺留 を太子とした。朱蒙が40歳で薨去した後、孺留が王位を継いだ。そこで沸流(ふる)は、『我々がここに居ては、気のふさがることが 疣(いぼ)や (こぶ)のようなものです。母を連れて南方に行き、良い土地を 卜(うらな)い定めて、別に国都を建てるのが良いでしょう。』と言った。そして弟の温祚(おんじゅ)と共に多くの家臣たちを率いてばい水(鴨緑江か大同江)や帯水(漢江)を渡って、弥鄒忽(びすうこつ)(京畿同仁川市)に来て住んだ。これが百済の始まりとしている。ただ、沸流は王位に着く前に死去し、初代百済王には 朱蒙召西奴の第三子温祚 がつく。
即ち、百済王家は北方騎馬民族・扶余の血を引いている。そして江上波夫教授らは崇神天皇応神天皇はこの温祚(おんじゅ)王家の血をひいているとするものである。
三国志記は、『通典(つてん)』(唐の杜祐が801年上進した隋。唐時代の諸制度を整理した書)の記事を紹介し、「百済は南は新羅と接し、北は高(句)麗に至り西は大海で限られている」と書いている。さらに、三国史記は『旧唐書 』の記事を引用して、「百済は扶余族の別種で、東北は新羅にいたり、西は海を渡ると越州にいたり、南は海を渡ると倭にいたり、北は高(句)麗。」としている。さらに「古典の記事によれば」として、「東明王の第三子温祚が前18年に卒本扶余(ちょるぼんふよ)(中国遼寧省(りょうねいしょう)渾江(こんえ)流域。遼寧省 は中国、東北地方南部の省。省都は瀋陽(しんよう)。遼河が貫流し、黄海と渤海(ぼっかい)に面する。東は 鴨緑江(おうりょくこう)を隔てて朝鮮半島と接する。鉄・石炭など地下資源に富み、工業が盛んである。)から尉礼城(ソウル市城東区風納洞)にいたり、都を立てて王を称した」としている。
高句麗の王室一族が事情により、百済に分派して新たに国を起こしたように、百済の王室が更に南下して新たに倭に王室を起こすことはあり得るであろう。実に、これが崇神天皇だと言うのが江上教授の主張である。
大辞泉によると夫余(ふよ)の説明は次のごとくである。「夫余とは、前一世紀~五世紀に中国東北地方から朝鮮半島北部で活動したツングース系の民族、また、その建てた国のことと説明している。1~3世紀に全盛期を迎えたが、494年に同じツングース系の勿吉(もつきち)に滅ぼされている。中国の歴史書には夫余は 鮮卑(せんぴ)・靺鞨(まっかつ)・女真(じょしん)などの名で登場する」。
北方騎馬民族征服説はこの夫余 と倭の王室が深い因縁で結ばれているとするものである。

天日槍命(あめのひぼこのみこと)と鉄製武器製造技術

日本列島がどの様な島々から成り立っているのか、どんな島影をしているのかなど未だ誰も知らない中、人々は舟でこの島にやって来た。そして飢えや寒さや暑さとたたかいながら家族が一塊になって地面に穴を掘り、その上に茅葺の屋根を作って(竪穴住居)暮らした。快適と言えないまでもそれぞれ自由勝手に暮らしていた。しかし、この様な時間が長く経過する中で、大陸から持ち込まれた米作り技術が定着し、次第に強い者と弱い者、支配する者と支配される者が人間社会に発生したのが弥生時代である。
日本列島において政治的支配力が発生した経緯について、鬼頭清明氏は岩波書店「日本通史」で次の様に述べる。
「日本の古代に於ける政治的支配は弥生前期に先ず、北九州で発生した。それからやや遅れて弥生中期になり近畿において政治的支配が発生した。この二地方が中心となり、日本列島における初期の政治的支配が徐々に確立された。何故、この地方かと言うと、この二地方が大陸の影響を受け易い「海の道」に位置していて、大陸の文化・技術移入を容易に成し遂げ得たことにある。海を通して中国・朝鮮半島の先進技術―特に鉄器製造の技術を獲得したことが政治的支配の原動力になった」
元々、中国大陸の東南端には紀元前十世紀頃に「越」とか「呉」と言う国が盛衰を繰り返していた頃に、倭人が住んでいたと言う記録が残っている。彼らは多く朝鮮半島を経由して日本列島に移住し、米作り技術を普及させた。この倭人たちは朝鮮半島南端と北九州(筑紫)から日本中に居住地を拡大したと思える。
先進文明技術の移入は技術だけが一人歩きして日本にやって来たわけではない。それは人々も共に大陸から渡来して来たと言うわけである。その中に政治的支配者もいたことであろう。
その先進文明技術の中で政治的支配力という観点から見れば鉄器製造技術が最重要項目であった。より強くより多く鉄製武器を持つ者が戦いに勝利できた。
鉄製武器製造技術は朝鮮半島を経由して大陸から倭国に持ち込まれた。そしてその中心人物が 天日槍命(あめのひぼこのみこと)である。鉄は国家創建の要であり、天日槍命が日本国創立に深く関与した可能性が高い。
天日槍命(あめのひぼこのみこと)は弥生前期、即ち「魏志倭人伝」が伝える「倭国大乱」の頃に、大船団を率い揖保川河口にやって来たのであろう。そして、自らその「倭国大乱」の主役を、葦原志挙乎命(あしはらしこをのみこと) (大国主命(おおくにぬしのみこと))と共に演じると共に、大和王権の成立に深く関与したのではないだろうか。
日本書紀は渡来時、難波津には入れず、但馬に住んだと簡単に記しているが実際のところは不明である。播磨国風土記の方がむしろ真実に近いであろう。即ち、天日槍命(あめのひぼこのみこと)は瀬戸内海の「海の道」を航行した後、難波津まで行くことなく揖保川河口から揖保川に沿って内陸部に入った可能性が高い。揖保川沿いにこそ鉄器製造の資源が多かったからである。そして、この行程の中で、当時この地方を治めていた土地神(出雲系の神)の葦原志挙乎命(あしはらしこをのみこと)と国占めの戦いを戦いながら勝利しつつ、揖保川上流に達したのである。その後、自らの意思で但馬に入ったと読める。
更に、天日槍命は出雲勢力を駆逐した勢いを駆って、続いて一気に大和地方まで攻め上り巻向(まきむく)に本拠地を置いた。そして其処に「邪馬台国」を築き、女王卑弥呼を擁立した(千田稔氏)。そして、この「山辺の道」地域において、卑弥呼を源流とする初期大和王朝が産声をあげ、その初代大王が崇神天皇である。
崇神天皇の又の名は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」、「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと)」と呼ばれる。彦は地域の「酋長」を表し、入(いり)は「外部から来た」である。従って、入彦(いりひこ) は外部から来た酋長ということである。御間城(みまき)は朝鮮半島の「任那(みまな)」、五十瓊殖(いにえの)は玉が一杯敷き詰めてあることを表す。従って、崇神天皇は元々朝鮮半島の 任那(みまな)出身の系統を持つ酋長と言うことになる。崇神天皇は元を辿れば 天日槍命(あめのひぼこのみこと)から出たと見做す。三輪山地域は元々、出雲が支配していた地域であり、崇神天皇は其処に外部から入り込んで来て、最初に大和国を治めた天皇(御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと))ということである。
三輪山と奈良の中間地点に奈良県磯城郡三宅町但馬(しきぐんみやけちょうたじま)と言う地名がある。三宅も但馬も天日槍命に縁の深い名前である。下但馬と言う名もある。大和川の上流でもある。ここから真直ぐ西には難波津がある。この地が大和地方における 天日槍命の最初の基地であり、続いて三輪山に侵入したのではないだろうか。
千田稔氏は三輪山の後ろにある 巻向(まきむく)山とその麓にある 大兵主(だいひょうず)神社 に注目すべきだとする。社記にはこの神社の「ご神体は矛(ほこ)、故に兵主神(ひょうずのかみ)と言う」とあり、ずばり天日槍(あめのひぼこ)が祀られているとする。兵主神は元々中国の山東半島地域の兵器の神様であり、秦の始皇帝さえもお参りしたという古い神様である。天日槍は朝鮮半島の新羅出身とされる、元々中国文化を持つ中国系の人物であろう。秦氏の祀る神でもある。
天日槍命は奥津鏡(おくつかがみ)と 辺津鏡(へんつかがみ)を持参している。辺津鏡は前漢(前202〜後8)晩期のもので、「内行花文昭明鏡」と呼ばれ、奥津鏡は後漢(25〜220)前半期のもの「長宜子孫花文鏡」と呼ばれている(千田稔氏)。
いずれにしても、この時期は卑弥呼の時代に重なるが、各地の豪族が並び立って戦う中で、出雲が抜きん出て大きなを力を持っていたようだ。大和王権も未だ姿を現してはいなかった。
出雲地方の遺跡から大量の「銅鐸」が出土していることから、出雲国は銅鐸文化の国と言えるようだ。そこへ「鏡」の文化を持つ 天日槍命が鉄器製造集団を引き連れて新羅から渡来した。鉄器製造の地を求めながら行く「鏡」の 天日槍命(あめのひぼこのみこと)が、「銅鐸」の 葦原志挙乎命(あしはらしこをのみこと)(出雲系の神)に遭遇し戦った。この主戦場が「播磨国風土記」で伝えられる揖保川流域と言うことになる。
新撰姓氏録 は天日槍命を祖先とする氏族は大和国諸蕃・糸井造、左京諸蕃・橘守、右京諸蕃・三宅連、摂津国諸蕃・三宅連の四氏族としている。
さて、日本書紀では 垂仁(すいにん)天皇三年春三月の条に 天日槍のことを次の様に説明している。ただ、この記述は日本書紀の編纂者にとって、前記したことが事実であればそれは500年前 の出来事であり、漢字メモが断片的に少しは残っていたかも知れないが、伝承などと繋いで、編纂者一つのストーリーを作り上げたであろうことを考慮しながら読まざるを得ないもの  である。そして、天皇家の起源が朝鮮半島にあるらしきことは場合によっては隠されたかも知れないし、事実既に忘れ去られていたのかも知れない。
「新羅の皇子、天日槍が来た。持って来たのは 羽太(はふと)の玉一つ・足高(あしたか)の玉一つ・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一つ(赤く輝く石の玉の意か)・出石(いずし)の小刀一つ、出石の鉾(ほこ)一つ(出石は但馬の国)・日鏡一つ・熊の神雛一具(ひもろぎひとそろえ)合わせて七点あった。それを但馬の国におさめて神宝とした。
一説には、始め天日槍は船に乗って播磨国に来て宍粟邑(しさわむら)(現在の宍粟郡)にいた。天皇が三輪君(みわのきみ)の祖の大友主と、 倭直(やまとのあたい)の祖の長尾氏(ながおち)とを遣わして、天日槍に『お前は誰か。また何れの国の人か』と尋ねられた。天日槍は『手前は新羅の国の王の子です。日本の国に誠王がおられると聞いて、自分の国を弟知古(ちこ)に授けてやってきました』と答えた。そして奉ったのは 葉細(はほそ)の 珠(たま)・足高(あしたか)の玉・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一・出石(いずし)の刀子・出石の 槍(ほこ)・日の鏡・熊の神雛(ひもろぎ)・胆狭浅(いささ)の太刀合わせて八種類である。天皇は天日槍に詔して、『播磨国の宍粟邑(しさわむら)、淡路島の出浅邑(いでさのむら)の二つに、汝の心のままに住みなさい』と言われた。天日槍は申し上げるのに、『私の住む所は、もし私の望みを許して頂けるなら、自ら諸国を巡り歩いて、私の心に適った所を選ばせて頂きたい』と言った。お許しがあった。そこで 天日槍 は宇治河を遡って、近江国の吾名邑(あなむら)に入ってしばらく住んだ。近江からまた 若狭国(わかさのくに)を経て、但馬国(たじまのくに)に至り居処を定めた。それで近江国の鏡邑の谷(はざま)の陶人(すえひと)天日槍に従っていた者である。天日槍は但馬国の出石の人太耳(ふとみみ)の娘麻多鳥(またお)をめとって、但馬諸助(もろすく) を生んだ。諸助は但馬日楢鉾(ひならき)を生んだ。日楢鉾清彦を生んだ。清彦田道間守(たじまもり)を生んだ。」
さらに85年後のこととして、垂仁天皇(かなり長生きである)の条に、「88年秋7月10日、群卿(ぐんきょう)に 詔(みことのり)して、『新羅の王子、天日槍が始めてやって来たときに、持ってきた宝物はいま但馬にある。国人に尊(よろこ)ばれて神宝となっている。自分は今、その宝を見たい』と言われた。その日に使いを遣して、天日槍の 曾孫 清彦に詔された。清彦は勅(ちょく)をうけて、自ら神宝を捧げて献上した。
羽太(はふと)の玉一つ・足高(あしたか)の玉一つ・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一つ、日鏡一つ・熊のひもろぎ一つである。ただ 刀子(かたな)が一つあり、名を出石(いずし)という。清彦は急に刀子はたてまつるまいと思って、衣の中に隠して、自分の身につけた。天皇はそれに気づかれず、清彦をねぎらうため御所で酒を賜った。ところが刀子が衣の中から現れてしまった。天皇はご覧になって清彦に尋ねて『お前の衣の中の刀子は何の刀子か』と言われた。清彦は隠すことはできないと思い白状して、『たてまつるところの神宝の一つです』と言った。天皇は『その神宝は仲間と一緒でなくとも 差支(さしつか)えないのか』と言われた。そこでこれを差出して奉った。神宝は全部、神府(みくら)に納められた。その後、神府を開いてみると 刀子はなくなっていた。清彦に尋ねさせられ、『お前がたてまつった刀子 が急になくなった。お前のところに行っているのではないか』と言われた。清彦は答えて『昨夕、刀子がひとりで私の家にやって来ましたが、今朝はもうありません』と言った。天皇は畏れ慎しまれてまた求めようとはされなかった。この後、出石の刀子は、ひとりでに淡路島に行った。島の人はそれは神だと思って、刀子の為に祠(ほこら)を立て、今でもまつられている。
昔、一人の人間が小舟に乗って、但馬国にやってきた。『何処の国の人か』と尋ねると答えて『新羅の王の子、名を 天日槍という』と言った。そして但馬に留まり、その国の前津耳(まえつかみ)の女麻柁能鳥(またのお)を娶って、但馬諸助(たじまもろづく)を生んだ。これは清彦の祖父である。」
古代史研究家の大和岩雄氏は88年の条に「出石の鉾(ほこ)」が登場しないのは 天日矛(あめのひぼこ)の子孫にとって、それが「神」であったからであろうと推測している。
天日槍は船団を率いて筑紫に到着、瀬戸内海を経由し播磨国まで来た。そこで、揖保川(宇頭川)に入り、上流に向かった。この過程で、当時播磨の統治者であった 葦原志挙乎命(あしはらしこをのみこと)と遭遇した。播磨国風土記の伝承は 天日槍の優勢を伝えている。天日槍は大船団を率いていたとみえる。天日槍葦原志挙乎を駆逐しながら揖保川を上流へ遡って播磨の宍粟邑(しさわむら)に住んでいたのであろう。垂仁天皇長尾(ながおち)を遣わして、『お前は誰か。また何れの国の人か』と尋ねられたのはこの天日槍であろう。
以上は日本書紀の記述だが、古事記では天乃日矛(あめのひぼこ)の渡来は応神天皇の時として、次の様に述べている。
「昔、新羅の国王の子で天乃日矛という者がいた。この人がわが国にやって来た。渡来した理由はこうである。新羅の国に阿具奴摩(あぐぬま)という沼があった。沼のほとりに一人の 賎(しず)の女(め)が昼寝をしていた。この時、太陽の輝きが虹の様に女の陰部を射(さ)した。また一人の賎(しず)の男がいて、その有様を不審に思って、その女の行動をうかがっていた。するとこの女は昼寝していた時に妊娠しており、その後赤い玉を生んだ。この様子をうかがっていた 賎の男は、その玉を所望してもらい受け、いつも包んで腰につけていた。
男は谷間に田を持っていた。田で耕作する農夫たちの為に一頭の牛に食料を負わせて谷の中に入って行くと、天乃日矛に出会った。天乃日矛が男に尋ねて言うには『どうしてお前は食料を牛に背負わせて谷に入るのか。お前はきっとこの牛を殺して食うつもりだろう』といって、天乃日矛は男を捕らえて牢屋に入れようとした。男が答えて言うには、『私は牛を殺そうとするのではありません。ただ農夫の為に食料を運ぶだけです』と言った。けれども天乃日矛は赦(ゆる)さなかった。そこで男は腰につけた包みを解いて、赤玉を天乃日矛に贈った。
天乃日矛は男を赦し、赤玉を持ち帰り床のそばに置いておくと、玉はやがて美しい 少女(おとめ)に姿を変えた。それで 天乃日矛はその少女と結婚して正妻とした。妻となった少女は常々おいしい料理を用意していつも夫に食べさせた。ところがその国王の子は思い上がって妻をののしるので、女が言うには、『だいたい私は、あなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます』と言って、ただちに、密かに小舟に乗って逃げ渡って来て難波(なにわ)に留(とど)まった。(これは難波の比売碁曾(ひめこそ)の社―大阪市東成区東小橋北乃町にあったと伝えられているーに座す阿加流比売(あかるひめ)という神さまのことである)。
それで 天乃日矛は妻が逃げたことを聞いて、ただちにその跡を追って海を渡って来て、難波(なにわ)に入ろうとしたところ、海峡の神が行く手を遮って難波に入ることができなかった。それでまた戻って、但馬国に行った。そこで天乃日矛俣尾(またお)の女(むすめ)前津見(まえつみ)を娶り、生まれた子が多遅摩母呂須玖(たじまもろすく)である。多遅摩母呂須玖の子が多遅摩斐泥(たじまひね)である。その子が多遅摩比那良岐(たじまひならき)である。その子が多遅摩毛理(たじまもり)多遅摩比多可(たじまひたか)清日子(きよひこ)の三柱である。清日子当摩乃羊斐(たじまのひめ)と結婚して生んだ子が 酢鹿乃諸男(すがのもろお)、次に妹の菅亀由良度美(すがくゆらどみ)である。そして多遅摩 比多可たじまひたか)が姪の菅亀由良度美(すがくゆらどみ)と結婚して生んだ子が 葛城乃高額比売命(かつらぎのたかぬかひめのみこと)息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)神功皇后(じんぐうこうごう)母)である。天乃日矛が持参した宝物は、玉つ宝といって 珠(たま)の緒(お)二連、それから浪を起こす領巾(ひれ)・浪を鎮める領巾、風を起こす領巾、および沖つ鏡、辺(へ)つ鏡、合わせて八種である。これらは 伊豆志(いずし)神社(兵庫県出石郡出石町 出石神社)に祭られる八座の大神である。」
両書を見る限り、新羅の王の子天日槍(天乃日矛)が渡来し但馬に移り住んだところは一致している。渡来した理由は「(日本の)誠王を慕って」と「逃げた妻を追っかけて」では大分異なる。神宝を持参したとういう点では同じである。但馬で土地の娘と結婚し、その子どもが但馬諸助だということも同じである。その但馬諸助の子孫に神功皇后の母、葛城乃高額比売命(かつらぎのたかぬかひめのみこと)がいたことも一致している。
ただし、天日槍の渡来の時期については、両書は異なる。元来、編年については意図的に創作されているとするのが通説である。
垂仁天皇は紀元前69年1月1日生まれ、 70年7月14日崩御とされ、神武天皇から数えて第11代目の天皇である。応神天皇は200年12月14日生まれ、310年2月15日崩御、第15代の天皇である。在位期間は270年1月1日 〜 310年2月15日。71歳で即位、111歳で崩御とされる。但し、垂仁天皇の実在性については疑問視されている。史実性があるとされる応神天皇についても、この編年記述は信憑性がない。応神天皇の在位は4世紀末から5世紀初めとするのが通説である。
記紀は国家の意図の下に編纂されたもの、風土記は脚色は少なく民間の伝承そのままが率直に記述されていると見て良いであろう。
「古語拾遺」の垂仁天皇の条に、
「此の御世に、始めて弓・矢・刀(たち)を以て神祇を祭る。」とあり、「新羅(しらき)の王子(おうじ)、海檜槍来(あまのひほこ)(まいけ)り。今但馬国出石郡(たじまのくにいずしのほり)に在りて 大(おほ)きなる社(やしろ)となれり」とある。これは神祇に武器を祭ることと、天日槍の渡来と鉄製武具製造の時期が重なっていることを示している。「海檜槍(あまのひほこ)」の海(あま)」は「海人(あま)」族を意味すると言われる。
さて、新羅とはどんな国であろうか。新羅は紀元前57年ごろ建国され、935年まで実在した朝鮮半島東南部を領土とする国である。七世紀には百済、高句麗南部を併合して統一新羅を形成した。首都は金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。中国の文献によれば新羅の前身は辰韓(しんかん)である。辰韓は中国三国時代に、朝鮮半島南部にあった三韓「馬韓(百済)、辰韓(新羅)、弁韓(任那)」の中の一つの国である。辰韓は帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域を指す。その境は、南にある弁韓(任那)と接し、その境は入り組んでいた。辰韓に住む人は自らを秦から逃れてきた亡命人の末裔と称した。その為、秦韓(しんかん)とも書く(後に、日本に渡来し、始祖を秦の始皇帝を名乗る秦氏の出自国とされている)。
馬韓人(百済人)とは言葉が異なっていたが、弁韓とは似通っていたらしい。穀物と稲を育て養蚕を生業としていた。頭は扁平短頭であり風俗は倭人に似ていたらしい。
天日槍の「渡来」と言うけれども、世界情勢から言えば、当時は、まだ日本と言う国の形は明確でなく、ただ東方の海に点在する島々に過ぎなかったであろう。天日槍側にすれば、ただ海を航海し、そこにある大小の島々に上陸したに過ぎない。
後世になって、即ち、律令国家確立を狙いつつ、日本の国史を編集している立場から言えば、「天日槍は日本の聖王を慕って来た」と書く必要があっただけの話しである。
それにしても、新羅と当時の倭(日本)は近い関係にあったようだ。風貌が日本人と似ている。人種的に入り混じりがとうの昔からあったのであろう。倭が力を持ってきた時、朝鮮半島に作った出先機関(加那)が 新羅が隣接していたことなどもあって、人と物の往来が頻繁に行われていたのであろう。新羅国の建国に際しては、倭人が 新羅国の大臣を勤めたこともあったらしい。
天日槍の子孫が 葛城乃高額比売命(かつらぎのたかぬかひめのみこと)、その娘が神宮皇后神功皇后の子が応神天皇であるから、天日槍―神功皇后―応神天皇は血が繋がっていることになる。
大日本地名辞書(吉田東伍著、明治33年12月初版)は天日槍の渡来を取り上げて「是は神代史における一大事であるが、今伝説する者少なし」とし、「ただ網干、大津、御津の三村数ヶ所に 荒神(くわうじん)とて 小祠(しょうし)(ほこら、または社(やしろ))の 遺(のこ)るは 客神天日槍(まろうどがみあめのひぼこ)を祭れるにあらずや」と締めくくっている。
たつの市揖保川町正条にも、「荒神(くわうじん)さん」と呼ばれる社(やしろ)があった。秋には「荒神祭(くわうじんまつり) 」が行われ、「子ども相撲大会」などが催されていた。「荒神 」とは「荒ぶる神」であり、「客神(まろうどがみ)」であり天日槍であろう。
天日槍と辰韓は次の二点で似ている。辰韓の始祖 赫居世(かくきょせい)と同様に卵生伝説を持つこと、と鉄器製造技術である。辰韓は朝鮮半島の鉄器製造技術の拠点であり、天日槍はそれを倭国に展開した中心人物と言えるであろう。

(完)

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この記事を書いた人

⼩宅 映⼠(おやけ えいじ)
趣味は、テニス、写真撮影、音楽鑑賞など

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